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文明と、そのカタストロフィのパターンについて調べてみた|Vol.2 ローマ帝国編

はじめに

過去に数多くの社会が崩壊もしくは消滅していった。
これら過去の事例は、おおむねどこか似通った道筋を辿っていったといえなくもない。しかし、当然のことながら社会によって崩壊の度合いは様々であり、崩壊のしかたも少しずつ異なっていて、まったく崩壊しなかった社会も沢山ある。

いずれにしても、過去の衰退していった文明を考察し、「文明の崩壊」をもたらす要因がなんであるかを考えることには意義があると考えられる。

ゆえにこのシリーズでは「ゆるやかな衰退」を辿っていった文明を取り上げてみたい。

Vol.1はこちら↓

今回は、古代ローマの滅亡について論じたいと思う。西ローマ帝国は一般には紀元 476 年に滅亡したとされている。(※東ローマ帝国は存続した)
ローマ帝国は完全に滅び去ったわけではないにしても、最盛期の勢いは失われ「文明の崩壊」を辿っていった事は事実である。よってここではローマ帝国がいかにして「ゆるやかな衰退」を辿っていったのかを考えたい。

ローマ帝国の歴史をざっくり解説するよ

ローマ史の舞台は、イタリアの一角に始まるが、最終的には地中海世界とブリテン島、ライン・ドナウ両河に至り、ヨーロッパ、アジア、アフリカにまたがる広大な領域を占める事となった。

紀元前1000年頃に北方からインド=ヨーロッパ語族の集団が南下して各地に定住し、先住民と融合したり住み分けたりしながら、イタリキと総称される多くの部族が生まれた。

紀元前800年頃から半島の南部にギリシャ人が植民し、多数の都市を建てた。イタリキのラテン人らも、これに習い徐々に都市を形成していった。ラテン人の共同体の一つがローマであったが、やがて強力な都市国家へと成長していった。

ローマでは王政から元老院が主導する共和制となり、ラテン人、エトルリア人など諸都市との戦いに勝ち、紀元前3世紀にはイタリア全域をほぼ支配した。ついで地中海に支配を広げ紀元前2世紀後半にはカルタゴを滅ぼしてギリシャより西の地中海を統一する帝国となった。

紀元前31年にはエジプトをも属州として地中海支配を完成させ、政治体制も 元首による独裁制となった。紀元前2世紀には、現在のヨーロッパ南東部やシリアまで達し、ローマ帝国は最大版図を達成した。

最盛期のローマ帝国を描いた映画として名高いのが「グラディエーター」である。ラッセル・クロウ演じる、マクシムスの不器用ながら気高い人生にシビれる! あこがれるゥ!(超絶オススメなので、ぜひ観てください)

帝国全土に都市があり、道路網も整い、ラテン語とギリシャ語の通用する均一な文化が広まり、古代地中海世界がここにまとまった。
無論、経済的にも絶頂期が訪れた。

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<↑ローマ帝国の最大版図>

3世紀にはいると、国境を外民族に破られ、皇帝位をめぐる軍事上の抗争が激化して帝国は混乱する。3世紀末、強力な権力をもつ専制的皇帝の支配体制が確立するが、都市は自由を失って衰退し、キリスト教が優勢になって古代都市国家的な要素は失われてゆく。

キリスト教的要素が強くなり、ローマ帝国がカオスになる時代を描いた映画の一つに、「アレクサンドリア」という映画がある。なんとも言えない気持ちになるのでオススメ(?!)

4世紀末東と西とに分裂し、西帝国はロムルス・アウグストゥルスがゲルマン人傭兵オドアケルによって退位させられ帝国は滅亡(476年)。 
東帝国が古典文化を継承しながら中世に存続していった。

なお、「西ローマ帝国」と「東ローマ帝国」は共に後世の人間による呼称である。その両方の国家の政府や住民たちは「ローマ帝国」と自称しており、複数の皇帝が帝国の領土を分割して支配するのも、単に広大な領土を有効に統治するための便宜にすぎないと考えていた。

このことを鑑みるに、西ローマ帝国・東ローマ帝国という二つの国家は、単一のローマ帝国の西方領土(西の部分)と東方領土(東の部分)だったということになる。西ローマ帝国が滅亡した後、東ローマ帝国は滅亡する1453 年まで自らの国家をローマ帝国と自称したのも、こうした背景があったからだと思われる。(井上浩一, 栗生沢猛夫「世界の歴史 11 ビザンツとスラヴ」,中央公論社, 1998 年, p30-33 を参照)

危ういシステム、気温そして蛮族

約250年間にわたってローマの権力・言葉・正義が、ヨーロッパ大陸のさまざまな土地と民族に、平和と繁栄をもたらした。だが、このローマの偉大な力も、新たな略奪品という報酬を軍隊に支払うために絶えず領土を拡張し続けなければならず、新たな資源(とくに労働力としての奴隷)を獲得しては生産力のない寄生するだけの中心地に送り込む、という危ういシステムによって成り立っていた。

なんと、領土拡張がひとたび止まると経済全体を維持できなくなった。
発展どころか、現状維持にも莫大な費用を要したからである。総延長1万6000 キロメートルにも及ぶ帝国の国境は、そのほとんどが自然の地形に従っていたとはいうものの、30万もの人員が「文明」の警護のため前線に釘付けにさせられていた。このようにローマ帝国が領土を拡大していくに当たり、ある一つの重要な要因がローマの拡大にとって有利に働いたが、遺跡や戦争ほどには明確でないため、歴史家も見過ごしがちである。

注意:ここから先のパート(主に気温・気候変動に関わる記載)に関しては一部の学者が主張している事項であり、歴史的事実と異なる可能性がある点について先に述べておく。ネット上で参照できる参考文献に関しては、本記事の最後の参考文献を参照してください。

それは“気温”である。ローマが北ヨーロッパを支配しイングランドにいたる北方にまで別荘(ヴィラ)を建てていたころは、今日よりも摂氏1度ほど気温が高かった。

たいしたことではなさそうに思えるが、この事のために現在よりも緯度にして5度あまり北方でもブドウの木が実を付けるのに十分だったのである。

具体的な例を出すとするならば、フランスのシャンパーニュ地方を英国のヨークまでもっていくのと同じことになる。霜はオリーヴのようないくつかの作物には妨げとなったが、ローマの農業は、彼らのおどろくほど一様な建築と社会と同じく、地中海周辺で行っていた方法とほとんど変わらずに大陸の大部分に移植されたようだ。

ところが紀元3世紀になり、気候がまた寒冷になってくると、徐々に作物は育たなくなってくる。この寒冷化はローマの農業のみならず、ステップ地帯の草原の縮小化を招いた。寒冷化は3世紀から5世紀にかけて継続して進行することになる。

この気候変化は中央アジアのステップ地帯にいたフン族に影響を与え、ゲルマン民族(東ゴート族・西ゴート族)を圧迫し、ゲルマン民族大移動の要因を作り出すことになる。これらの民族は、ライン川のローマの国境を間断なく攻撃して帝国を悩ませた(以前から当該国境線では衝突が繰り返されていたが、ローマ軍が優勢であった)。

気候変化がその後の1000年間に大きな影響を与えたことは確かである。3世紀中頃に、カルタゴの司祭キプリアヌスは当時の陰鬱な前兆と経済的な災いについてこう書いている。

「世界は齢を重ねて、かつての活気を失った。......冬はもはや種をふくらませるに十分な雨を降らせてくれないし、夏の日差しも収穫を実らせてくれるほど十分ではない。......山は根こそぎ荒らされて大理石が昔ほど出ない。鉱山は疲れ果てて金も銀も少なくなった。......畑には農夫が、海には船乗りが、野営地には兵士が不足している。......裁判にはもはや正義が、交易には資金が、日常生活には規律がなくなっている......。」
カルタゴの司祭キプリアヌスの言説より

中央アジアにも同じ気候の悪化が生じ、ステップが干上がってしまい、アルタイ民族は新しい牧草地を求めざるを得なくなった。そうして移住した民族達により、祖国を追われた多くの民族が恐ろしい破壊の波となり動き出した。

西ゴート族、フン族等のいわゆる蛮族の侵攻に悩まされたローマは、遂に476年の皇帝の退位をもって滅亡した。

しかし、ローマ帝国が興る前から、“文明化された”地中海沿岸ヨーロッパの境界外には蛮族は存在し、度々、ローマ帝国に対して攻撃を仕掛けていた。最盛期のローマは攻撃の数々をうまく退けてきた。

ところが、しだいに蛮族の方が戦闘での勝利を収める事が多くなっていった。つまり、「何らかの理由」によりローマ帝国自体の力が弱まったのか、もしくは蛮族の力が強まったのかもしれないと推測できる。

社会に力がある間は、敵を退ける事が出来るが、「何らかの理由」でその力が弱まれば敵に屈することになる。

その顕著な例として、ここでは「気温」に注目して議論を展開してきた。
気温によって非常に大規模な民族移動が促され、力が徐々に削がれていた帝国は、最終的に攻撃に屈してしまった。

アイデンティティの変容、そして軍制

言うまでもなく、ローマ帝国は「ローマ人」の築いた国家である。国家の呼称は、イタリア、中でもローマ市に結びついていた。直接支配する領土が拡大して「ローマ人」の内実はローマ市からもイタリアからも離れてしまったが、広大な最盛期の帝国にまとまりがなかったのではなく、しっかりと国家は統合されていたといえる。

その基軸となった思想は、一般に「ローマ理念」と呼ばれる。
その考えは、故地ローマを抽象化して普遍的な価値を持つとする考え、と説明される事が多い。

この事について、京都大学教授の南川高志氏はその著書、「新・ローマ帝国衰亡史」の中で次のように述べている。

「......(ローマ理念について)私はより具体的に、ローマ帝国に統合を与えていたのは『ローマ人である』というアイデンティティであると考えたい。ローマ帝国とは、広大な地域に住む多様な人々を、『ローマ人である』という単一のアイデンティティの下にまとめ上げた国家であった。異なった文化や歴史背景を持った、まったく見ず知らずの人々にも、このアイデンティティが『私たちローマ人』という感覚を共有させていた。ラインやドナウのフロンティアで、また寒風吹きすさぶブリテン島のハドリアヌスの長城で守備につく兵士たちも、『ローマ人である』『私たち』のために戦っていたのである。『ローマ人である』ことは抽象的な概念ではなく、その内実は、軍隊や生活様式など具体的な要素であった。しかし実際には、『ローマ人である』というアイデンティティは国家を統合するイデオロギーとして作用した。しかも暮らしに密着した具体性を備えていたから、ローマ帝国に参加することによってより良い状況になれるという期待を保証するものであった。それゆえ、周囲の人々を帝国に招き寄せたし、とりわけ有力者たちの利害に合致していた。その結果、ローマ帝国は魅力と威信を持つ、『尊敬される国家』たりえたのである。」

この点から、ローマ帝国は、広大な地域に住む多様な人々を、「ローマ人である」という単一のアイデンティティの下に統合した国家であったことを読み取ることができる。

しかし、諸民族の移動や攻勢の前に「ローマ人」のアイデンティティは危機に瀕し、変質してしまったと考えられる。

370年代に最初に諸部族の移動の影響を受けるようになったのは、帝国の東半分であった。しかし、崩壊したのは西半分である。この結果の違いは、まず政治構造の違いに起因するものとされている。帝国東半分では皇帝政府の権力が強いのに対して、西半分では在地の有力者が強い力を持っており、皇帝政府が地域を把握していなかった。

そのため、国家を構成する勢力が帝国から容易に離反してしまう可能性があったのである。「帝国」という看板の基に持てる力をまとめ上げて外部に抵抗できるようなメカニズムが働かなかったのである。

こうした政治構造の違いに加えて、両者には政治の担い手の違いも存在した。

激動の時期に、西半分では、高位の政治指導者から外部部族出身者の姿が消えているのである。西ローマ政府の高官にもイタリアの伝統的な貴族家系出身者が占めるようになり、東の政府や軍隊に続々と外部部族出身者が採用されるようになったことと著しい違いを見せている。

ちなみに、最盛期の皇帝であり、「五賢帝」として称賛されることもあるトラヤヌス(ネルウァ=アントニヌス朝の第2代皇帝)はイタリア本土の上流貴族出身ではなく、属州出身の皇帝であった(ローマ帝国史上初)。その後、帝国上層部のポストに属州出身者が就くこともあったことは、4世紀以降の流れと対照的である。

この事実は、激動の時代に排斥的な思想が人々の価値観に影響を及ぼしていたことを示している。つまり、「ローマ」という国家が4世紀以降の経過の中で徐々に変質し、内なる他者を排除し始めたということである。高まる外圧の中で、古代ローマは偏狭な差別と排斥の論理に成り立つようになり、ローマ社会の精神的な有様は変容して、最盛期のそれとはまったく異なるものとなってしまったのである。

つまりこの事から、外部部族(軍事力で実質的に帝国を支えている人々)を「野蛮」と軽蔑し、「他者」として排除する偏狭な性格をもった考え方が徐々に人々に浸透していった事が推測される。この排他的な「ローマ主義」に帝国の政治の担い手も乗っかって動く時、世界を見渡す力は国家から失われてしまった。つまり、世界情勢を見ない排他的な思潮が現れて、帝国政治に影響してしまったことが、西ローマ帝国の命取りとなったのである。 

アイデンティティの変容と共に注目すべきは、軍制の弱体化だ。
ローマ軍は極めて規律が高く、共和制時代から市民が武器を取って外敵と戦う準備ができていた。この規律は、飴と鞭で裏付けられていたようだ。もちろん、逃亡兵には罰が与えられた。部隊のパフォーマンスが悪いと共同責任を取らせるという制度もあった。その一方で、戦功を上げた兵士には名誉が与えられ、様々な褒美も与えられたようだ。これにより、高い士気を誇り、規律が浸透している軍隊のシステムが構築されていた。

しかし、ローマが富んでいくにあたって好き好んで軍隊に志願する市民は減少していった。加えて、それまでも採用していた傭兵(ゲルマン民族等)の枠を向上させ、どんどん軍隊のアウトソーシングを進めていく方針を採用していった。一旦、アウトソーシングしたものを再度内製化するのは難しい。476年に西ローマ帝国を滅ぼしたオドアケルが西ローマ帝国の傭兵隊長だったというのは象徴的な出来事だったといえよう。

市民からはモチベーションもスキルも既に失われてしまったにも関わらず、帝国を維持するにはさらにアウトソーシングに頼らなくてはならない......という悪循環に陥ってしまったローマ帝国は、滅ぶべくして滅んだといえよう。

まとめ

これまで考えてきた通り、西ローマ帝国(=ローマ帝国)が滅亡した直接の理由は「近隣の敵対集団」であった。

崩壊の近因は敵対集団の軍事的制圧になるとしても、崩壊に至る変化の真の源は、古代ローマの衰退を徐々に進行させた環境の変化(気候変動に関しては諸説あり)・アイデンティの変容・軍制の不可逆的な弱体化であったと考えられる(もちろん、その他にも様々なファクターが複雑に作用していたと考えられる)。最初に考えた通り、古代都市国家的な要素を捨て、果てのない領土拡大に走っていったことも一因であった。

それらの問題は急激に発生したものではなく、「ゆるやかに」そして確実に衰退の要因を形成していったものと考えられる。

排他的思想が崩壊の要因の一つとして学説にて提示されていることは興味深い。現代世界に於いても、「内なる他者を排除する論理」が一定の支持を獲得している(日本に住む外国籍の方々に対する論説・近隣の国家に対する論調・身近に存在するLGBTQの方々に関する各種議論...etc)。古代ローマの例は、排他的思想が極まった時、国家の行く末がどうなるのかに関して重要な点を示唆している。今こそ古代ローマの衰退の例に目を向けるべき時ではないだろうか。

次回は、ローマ帝国と並んで論じられることの多い、大英帝国の例を取り上げたいと思う。

<※大英帝国編へと続く>

スピンオフの記事はこちら↓

<参考文献>
井上浩一, 栗生沢猛夫「世界の歴史11 ビザンツとスラヴ」,中央公論社, 1998年
長谷川岳男, 樋脇博敏「古代ローマを知る事典」東京堂出版, 2004 年
マイケル・アルフォード・アンドリュース[著],西川治[監訳]「図説 ヨーロッパの誕生(下) ユーラシア大陸と西洋文明」東洋書林,1998 年
南川高志「新・ローマ帝国衰亡史」岩波新書, 2013年
吉村忠典「古代ローマ帝国の研究 ローマ帝国という名の国際社会」岩波書店,2003 年

[気温・気候変動に関わる参考文献]
佐々木明「アトランティック期末葉(西暦0.3-0.6千年)の気温変動と世界史--完新世の人類学(11)」2008年
環境委員会調査室 杉本勝則「地球温暖化の未来と日本の役割~地球シミュレータの予測する未来を訪ねて~」立法と調査, 2007年

https://note.com/kobo_taro/n/nba581694e16d

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