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ダリとマグリットを推す話|シュルレアリスムと新たな視点への扉

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(ルネ・マグリット|『光の帝国?』1950年)

はじめに

みなさんは、ダリまたはマグリットという画家をご存知だろうか。

ダリはスペイン出身の画家で、マグリットはベルギー出身の画家である。双方共に、「シュルレアリスム」というカテゴリーの画家としてカテゴリー分けされることが多い。

「シュルレアリスム」とは何か? 簡単にいえば、こんな感じである↓

我々人間によって作りだされた美学や道徳的先入観などのリミテーションから解き放たれ、理性による支配がない無意識の世界を表現しようとしたのがシュルレアリスム、超現実主義なのです。
(『シュルレアリスムとは何か 超現実的講義』|KARUIZAWA NEW ART MUSEUM)

私は、大学生の時、彼らの作品に出会った。

2015年の3月25日から6月29日まで、六本木の国立新美術館に於いて、「マグリット展」が開かれた。当時、友人と訪れる機会があったのだが、マグリットの描く不思議な世界に引き込まれ、「シュルレアリスム」というものに対し魅力を感じるようになった。

それからというもの、折に触れては、自分の中でシュルレアリスムというものに対する興味関心が復活する時期があり、その度に検索窓に彼らの名前を打ち込んだ。

今回は、自分なりの彼らの作品に対する解釈をつらつらと書いてみようと思う。

サルバドール・ダリの作品から

このセクションでは、サルバドール・ダリの作品から、「シュルレアリスム」を解釈する際の一つの可能性を考えてみたい。まず以下の作品からダリの作品の特徴を考えてみる。

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(サルバドール・ダリ|[1枚目]『記憶の固執』1931年, [2枚目]『家具栄養物の離乳』1934年)

上に挙げた二つの作品では、ぐにゃりとした時計、そして非常に柔らかいと推測される肉体的な物質が非常に特徴的であり、目を引くものとなっている。

ダリが独自の方法で、物体に異常とも思えるほどに柔軟性を与え、更に偏執的に強調して描いていることを読み取れる。上の絵でいうところの柔らかい時計や、杖のような支えを必要とする肉体の変形したものがそれに当たる。こうした、柔軟性があり、流動的な物質を描くことをダリは好んでいたと考えられる。

また、彼は作品を非常に鮮やかに仕上げ、そして写真に興味を抱いていた。その点に関して、美術評論家の瀧口修造氏は著書の中で以下のように述べている。

ダリの色彩は、その作品の緻密画的な構成と異様な光の表現にもかかわらず、点描的な方法によらず、透明色の原理によっている。この点が近代の印象派の自然主義的な方法とは全く異なっている……ダリの色彩はこの点でも写真的であるということが出来ないだろうか。彼が絵画を写真にたとえているということや、また事実天然色写真に興味を持っているという理由からだけでなく、光のマチエールによる写真の色彩は、視覚的に透明な持続性と密度とを与えるからである。要するにダリは絵画に新しい物質的な浸透的な光の表現を与えた。しかも自然主義的・分析的な方法ではなく、異様な心理的方法によって、一見したところむしろ写真の色彩効果に近づいたのは興味深い事である。
(瀧口修造『シュルレアリスムのために』せりか書房,1978年,p164)

上記の事柄から、ダリの作品が近代の印象派の自然主義的な方法とは全く異なった仕方で表現を試みたこと、また「絵画に新しい物質的な浸透的な光の表現を与えた」ことを読み取ることができる。これは、ダリが現実というものを写実的に描写するよりも、それを超えたもの、巌谷國士氏の言葉を借りるならば「超写実 」というものを表現することに心血を注いでいたことを窺い知ることができる。

もしかすると、彼の作品上で示されている光景は、連続性をもってこの世界に存在しうる現象として描かれた...のかもしれない。

この世界には、我々はそれに"気付いていない"、或は"気付くことができない"ような、常識の外にある了解不可能な範囲の事象が存在し、それらが非常に身近に存在している可能性をダリは示したかったのではなかろうか 。

我々が世界を捉える際のフィルターに対する揺さぶりと、「世界を捉える際の新たな枠組み」の提示をダリは作品の中で試みていたと考えられる。

ルネ・マグリットの作品から

前のセクションでは、ダリの作品が、「世界の枠組み」の新たな可能性を提示し、我々の世界を捉える際の枠組みの拡張を狙っていたのではないかという一つの可能性について考えることができた。

ここでは、ルネ・マグリットがダリと同じように、「この世界を捉える視点」というものを疑っていた事に加えて、ダリの思考を更に前進させ、「現実」とは何なのかを問いかけるスタンスが作品から読み取れる点について取り上げたい。

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(ルネ・マグリット|『田園の鍵』1933年)

上記の作品に於いてマグリットは、絵の中に窓枠を置いている。実は、彼は世界を「枠」的存在によって区切るような作品を複数残している。

この事は、マグリットが「絵画」という表現形態を一つの窓のように捉えていたことを窺い知ることができる。

もしかすると "額縁や窓を通じて見えるものは必ずしも世界の本質を捉えたものでもない" とマグリットは思考していたのではないだろうか。

私達はマグリットの作品を通して、この絵の中の世界を外側から眺めることが出来ている。その為、このマグリットの作品の中の世界の異変や変化に気付くことが出来ている。

しかし、それはまやかしの客観的視点であり、実は絵の中の事象の《そのもの》を捉えているわけではないことに留意しなくてはならない。

本質的に絵の中の事象を捉える為には、絵の中に行かねばならないし、絵の中に行っても結局は自分の視点から物事を捉えなくてはならないので、結局本質を捉えることは不可能なのだ。即ち、我々の捉えている世界は、我々のフィルターや、枠組み、「枠」的存在を通しての「世界」であり、それは必ずしも世界の本質を捉えたものではない。

世界とはいわば表象であり、それも私達一人ひとりのフィルター、即ち額縁や窓枠などの「枠」的存在を通じて捉えたものであり、世界の《そのもの》を捉えることはできないことをマグリットは絵画を通じて示したかったのではないだろうか。

それと同時に「世界」というものを客観的に観測する事は不可能であることをマグリットは提示したかったものと考えられる。マグリットの作品からは、世界や、私達、又は作者でさえも、この作品や世界の本質/"そのもの"と呼ばれるもの...に到達する事が不可能である点も読み取ることができる。

最後に、「イメージの裏切り」という非常に興味深い作品について考えてみる。

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(マグリット|『イメージの裏切り』1929年)

上記の作品に於いてマグリットは主題としてパイプを中央に据えている。しかし、その下には「これはパイプではない」と明示することで、作品を鑑賞する人々を困惑させる。

この絵は、「これはパイプの絵であり、本質的なパイプという存在ではない」という事を示しているものと考えられる。この事は、文字・具象というものをいわば惰性的・習慣的に結びつけようとする我々の姿勢に対し疑問を投げかけているものであると考えられる。

我々の世界は、名前というものに囲まれて生活している。いわば名前に隷属していると言っても過言ではない。

思考する際にも、我々は言語を用いる。それは即ち、我々の捉えたものを名付けし、又は名付けされたものを言語的に結び付けながら思考を巡らしているのだと考えられる。

つまり、「名」と「モノ」の関係はあくまでも「習慣」又は「約束事」という枠組みに従っているものであり本質を表現したものではない点を、この作品から気付かされるのである。

上記の要素に鑑みた場合、「これはパイプではない」というこの作品は、我々が「モノ」に対して抱いているイメージへの反省を促していると考えられる。

名に囲まれて生活している人間が、どれほど名に振り回されてきているのか、名に捕らわれることで、そのオブジェクトの本質を考えようとせずに、思考停止していないか、痛烈に批判を加えているのである。

また、我々の捉えている「世界」というものが、あくまでも我々の内部の表象であり、様々な約束事・習慣・先入観・イメージに縛られていることも示している。

また、マグリットの絵はダリとの比較において、以下のように評されることがある。

ダリにくらべてマグリットの風景は、煮ても焼いても食べられそうにありません。それにしてもなんと明るくて冷やかな風景。ダリの粘着と凝固に対して乾燥と冷却を感じさせます。
(巖谷國士『〈遊ぶ〉シュルレアリスム』平凡社,2013年,p95)

それは、彼の作品が幾何学や遠近法といった概念で捉えられるものではなく、むしろ記号や形而上学というものに近いからだと考えられる。つまり、絵画を通してマグリットはある種の形而上学又は言語学的な実験を行っていたのではないかと考えられる。

この記事のまとめ

今回、考えてみた内容を簡潔にまとめてみる。ダリとマグリットはその作品を通じて、大まかに以下のような点を我々に訴えかけていると考えられる。

ⅰ. この世界には我々の了解不可能な範囲が存在している。また、我々はこの世界を、いわば「取捨選択」して、一面的に捉えているに過ぎない。
ⅱ. 我々の捉えている「世界」というものは、あくまでも我々の内部の表象であり、様々な約束事・習慣・先入観・イメージといったフィルターを通じて捉えているに過ぎないということ。

ダリやマグリットという画家に代表されるような「シュルレアリスム」とは、新しい視点で自己の枠組みに捉われることのない世界の視点の提示と、そのような視点の必要性を我々に気付かせるもの、として解釈できるのではないかと私は考える。

彼らの作品は非常に刺激的であり、ともすると頭の中が「?」と「!」が一杯になるような作品ばかりである。今回はシュルレアリスムと絡めて論じてみたが、何も考えることなく・あるがままに作品を眺めてみることの方が非常に大切であると思う。それこそ、新しい世界の可能性に気付けるかもしれない。

是非、「ダリ」「マグリット」又は「シュルレアリスム」で検索を行い、彼らの作品を楽しんで欲しい。

(taro)

p.s. ちなみに、ネットで絵画を鑑賞する場合には、以下のサイトが非常にみやすくまとまっているのでオススメである。


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