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アレルギーで悩んだ幼少期。食べられるものがない・・・-Ep1-

そもそもなぜ”農業”にたどり着いたのか。
それは遡ること28年前。生まれた頃からずっとアレルギーで悩んでいました。


生まれた時からアレルギー。食べられるものがない!

私は1993年10月5日、奈良県のとある病院で生まれました。
両親は大阪府出身で、父が神奈川県に上京し仕事をしている中で
母とお見合いで結婚し、横浜市に住むことになりました。

生まれた時から、卵・牛乳・小麦・肉・魚の食物アレルギー、
またアトピー性皮膚炎、アレルギー性鼻炎など様々な症状があり
とにかく体が弱く、1ヶ月に1回は風邪をひき小児科に連れていかれていました。

まだ当時は今ほどにアレルギー、アトピーに対して認知されておらず
母から聞く話では、顔に湿疹ができていると周りのお母さんからいろいろ言われるので
外で遊ばせるのも嫌で、よく家の中で遊ばせていたようです。

しかも両親が今まで食べてきたものがすべて食べられない・・・
今までの食生活をガラッと変えて、野菜と大豆、お米の自然食に変えたそうです。
自然食の料理教室に通ったり、東洋医学の先生を見つけては通ったり
今考えると本当に必死だったと思います。

みんなと違う小学生。給食が食べられない。

小学生になる前に、父の仕事の都合で伊勢原市に引っ越しました。
山に囲まれ田んぼが広がっている自然豊かな場所で
ちょうど開発が進んでいる時期で、引っ越してくる家族が多く新しく小学校ができるほどでした。

私は小学校に上がる前、ある問題に直面します。
それは給食の問題でした。

当時の小学校は学校給食が当たり前でした。
しかし私は食べられないものが多く、
母が校長先生に直談判し、お弁当を持っていけないか交渉します。
何度かやり取りが合った末、特別に許可をいただき
お弁当を持っていけることになりました。

私はなぜみんなと違うお弁当を食べているのか不思議でした。
周りのお友達もなんでお弁当なの?と幾度となく聞かれたことを覚えています。
年齢が上がるにつれてだんだん恥ずかしくなり
みんなと同じものを食べたいなとうらやましくなることがしょっちゅうでした。

うらやましい!駄菓子にカップラーメン、ハンバーグ・・・

学校の友達から放課後に遊びに誘われても
おやつの問題もあり、遊びには行かせてもらえませんでした。
(遊びより勉強派の母でしたが)
学校の目の前にある駄菓子屋さんを横目に
家に帰った日々が懐かしく思います。

そしてなにより祖父母や親戚からいろいろ言われるのが
当時の両親はつらかったと思います。(特に母かな)
帰省して親戚が集まると、外食や珍しい料理が食卓に並びます。
「なんで食べられないの?」「タンパク質とらないと大きくなれないよ」
「おいしいから食べなよ」「どれだったら食べられるの?」
私も誘惑にはきちんと断っていましたが(笑)

昔から負けず嫌い!リーダーシップ全開の真面目ちゃん

アレルギーのせいもあるのか身長が小さく
学校の全校集会で並ぶとき、いつも背の順で一番前。
運動会でも一番前。とにかく小さくてよくいじめられていました(笑)
今も身長144cmのミニサイズですが
不便は多いものの
今ではトレードマークとして有効活用しています!!

背が小さいと馬鹿にされやすく
とても悔しいので何に対しても全力で取り組んでいました。
とにかく目立つことが好きで、将来の夢は総理大臣(笑)
学級委員をやったり、何事にもチャレンジして
明るいムードメーカー的な存在でした。

そう。あの日を境にその笑顔が消えてしまいます・・・


つづく

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