何者でなくても
サードプレイスとは、家でも会社でも学校でもなく、第3の居心地の良い場所。
最近、まちづくりやコミュニティについての話を聞く機会があり、そこでサードプレイスついての話がありました。
サードプレイスの要件とは、
「目的もなく、人が集まれること」
つまり、たとえ芽が出ていなくても種を待ってくれる場所、それは受け皿であり、何者でなくても受け入れてくれる場所。
子どもの立場で考えると、児童館はそういう場所なのかもしれない。
家でも、学校でも、塾でもなく、受け入れてくれる場所。
幼児期の早期教育から始まり、小学校での英語やプログラミングを学び、受験戦争に放り込まれる子どもたち。
もちろん、これからを生きる子どもたちにとっては必要な知識やスキルもある。
ただ詰め込む教育の中で、子どもたちに、あなたは何ができるのか、あなたが居ることでどんなメリットがあるのか、あなたは何者なのか、を強いてはいないだろうか。
そして、大人たちは社会は、レールから外れた子どもたちに手を差し伸べているのだろうか。
子どもだけではないのかもしれない。
大人も、ただそのままで居られる社会ではなくなっている。
「子どもの居場所をつくりたい」という私の夢。
それはどんな子どもも受け入れるということ。
子どもだった大人たちも受け入れるということ。
どんな人でも、その人がその人のままで居られる場所ということ。
この夢は、軽々しく語れる夢ではないのかもしれないなと思いつつ、言葉にしていかないと叶うはずは無いので言葉にしている。
そして言葉にしながらも、その場所をつくる自分はあるがままに、どんな人でもどんな状況でも受け入れられる自分でありたいとも思う。
まとまりないけど、今日はここまで。
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