ただ漂っているだけ

僕の地元の大きな本屋さんが閉店する事になった。移転するまでは家のすぐ近所だったこともあってよく通わせてもらった。

不気味な笑みを浮かべるせえるすまんが怖くて号泣したのも、Z戦士と一緒に何度も地球を守ったのも、大好きな作家に出会ったのも、あの時は元気だったばあちゃんに無理を言ってゲーム機を買ってもらったのも(こないだ、いとこの子どもが来てばあちゃんが買ってくれたゲーム一緒にやったよ。そっちから見てたと思うけど。)全部この本屋だ。僕の体内を流れている"コンテンツ"の多くはここで供給されていた。

そんな本屋が潰れてしまうのはやっぱり寂しい。僕は今地元を離れて暮らしいるが、これは最後に行くしかないと思い、閉店を数日後に控えた本屋を訪れた。学生時代は部活の先輩がよく立ち読みしていた。なんとなく今日もいそうな気がしたけれど、当然先輩は立ち読みしていなかった。最後の挨拶代わりに、と大好きな作家の本を2冊買った。商品を受け取った時の「ありがとうございます」は店員に対してでもあるし、この本屋に対してでもあった。

家路の途中でふと、「本屋は潰れるのに宗教は元気か」と思った。僕の町には新興宗教の施設がいくつかある。そこには閉店のポスターはない。完全な八つ当たりだ。小学生が他人の家庭環境も知らず「〇〇くんの家はいいなぁ」っていうアレとほぼ同じだ。

読書と宗教。僕の八つ当たりのせいで無理やり土俵に上げられた両者だが、両者を見比べてみると割と対照的な2人である事に気づく。

この世界にあるコンテンツの中でも読書はかなりカロリーを使うものだと思っている。ただボーッと読んでいるだけでは一向に話は入ってこない。自分の中で想像力をフル稼働させて読む必要がある。それに対して宗教は自分以外の何者かに判断を委ねる。

僕の町では宗教が勝った。勝敗の要因はきっと"非課税かそうでないか"だけではないのだろう。この町には元気がないのだ。自分で本を開いてそれを読み、考えるだけの元気が。だから、人はただ漂う事を選ぶ。そして集団の一員であることに、ただただ酔っているのだ。

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