最初にウイキの間違いを一つ指摘しておく。
女給見習い
こうした細かい点を見落とすと、やはり少し話が変わってくる。昔は春を売る女給もいたことだし、谷崎はここで敢て若さを強調して、まだ世間ずれしていないと思わせたいところだろうからだ。
まだこんなに大人ではない。そして後はまあまあちゃんと読めている。しかしやはり「落ち」に気が付いていない。
立場が逆転する
芥川作品風に言えば、『痴人の愛』は「立場が逆転する話」だ。注目されないがそういう落ちを持っている。そこにフォーカスしすぎると悪ふざけだと勘違いする人もいそうだから黙っていたが、やはり見落としている人しか見当たらないので書き足して置く。『痴人の愛』はある意味では英語学習の話なのだ。
これが出だしの所。河合譲治は、
学習補助に回る。
英語学習の指導方法でハリソン嬢と対立する。
そして間違った英語学習の指導を実践してしまう。
そして無茶をいう。そんなものは解る解らないではなく記憶の問題なので量でしのぐしかない。日本語だって自然と上達するものだから仕方ない。
そして河合譲治は案外炬燵弁慶なところを見せる。
ナオミも最初は英語が話せなかったが、結びでは立場が客転する。
つまり一面に於いて『痴人の愛』は文法中心の日本の英語教育を批判し、実地の会話に慣れ親しむことによる英語力の向上を示唆する教育指導に関する提案書でもあるのだ。
いや冗談ではなく、作品はまちがいなくそういう構造を持っている。この話は確かに主人公とナオミの英語に関する立場が逆転したところで終わっている。河合譲治がナオミの肉体の奴隷となって話が終わっている訳ではない。縦軸はあくまで英語学習なのだ。
主人公に「河合譲治」という名前を選んだ時から「ジョージ」と呼ばれることは運命づけられていた筈だ。
と、こんなことを今更書いてみる。
当たり前すぎてみんな言わないのではなく、どうもみんな気がついてすらいないと気がついたから。
※ここで野暮な付け足し。
立場が逆転するのは英語だけじゃないでしょ、という人が現れるかもしれない。いやむしろそこはみんな分かっていて、英語教育という軸が見えていない人が殆どすべてなんじゃないかという話だ。
そこを書いている人なんか一人もいないでしょ?
これ、英語の軸がないとふにゃふにゃした話になるなというところが「言われてみれば分かる」というのが私が想定する読者の最低水準。あ、これは野球を軸にした父と子の和解の話だなとか、そういう映画があったよね。で、そこから野球を抜くとどうなるか?
たとえば『痴人の愛』に芸術的価値があるとすれば、それはまさに文法と自然の対決というところにあるんじゃないかな。受動態だとか仮定法だとか本来ないところに人間の存念で拵えた観念があるとすれば、それを自然の力が突き崩すところに面白みがあるわけだ。それこそ受動態ってなんなのかね、という話だ。されたのかしたのか、そうなったのか、あるいはさせていただくのか。自由意志なんかあるのか。そもそも仮定法って起こり得ないことなんだよね。そんなこと考えてどうする。
そういう余計な存念を山ほど積み上げてがんじがらめになっている人間の愚かさをナオミは自然に突き崩して行ったわけだ。
漱石の『二百十日』も「二百十一日」だって気が付いていない人がいるよね。
そこが解らない人はもう少し頑張ってほしい。