見出し画像

谷崎潤一郎の『痴人の愛』をどう読むか⑨ 立場が逆転する話だ

 最初にウイキの間違いを一つ指摘しておく。

女給見習い

『痴人の愛』(ちじんのあい)は、谷崎潤一郎の長編小説。カフェーの女給から見出した15歳のナオミを育て、いずれは自分の妻にしようと思った真面目な男が、次第に少女にとりつかれ破滅するまでを描く物語。小悪魔的な女の奔放な行動を描いた代表作で、「ナオミズム」という言葉を生み出した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%97%B4%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%84%9B

 私が始めて現在の私の妻に会ったのは、ちょうど足かけ八年前のことになります。尤も何月の何日だったか、委くわしいことは覚えていませんが、とにかくその時分、彼女は浅草の雷門の近くにあるカフエエ・ダイヤモンドと云う店の、給仕女をしていたのです。彼女の歳はやっと数え歳の十五でした。だから私が知った時はまだそのカフエエへ奉公に来たばかりの、ほんの新米だったので、一人前の女給ではなく、それの見習い、―――まあ云って見れば、ウエイトレスの卵に過ぎなかったのです。

(谷崎潤一郎『痴人の愛』)

 こうした細かい点を見落とすと、やはり少し話が変わってくる。昔は春を売る女給もいたことだし、谷崎はここで敢て若さを強調して、まだ世間ずれしていないと思わせたいところだろうからだ。

 まだこんなに大人ではない。そして後はまあまあちゃんと読めている。しかしやはり「落ち」に気が付いていない。

立場が逆転する

 芥川作品風に言えば、『痴人の愛』は「立場が逆転する話」だ。注目されないがそういう落ちを持っている。そこにフォーカスしすぎると悪ふざけだと勘違いする人もいそうだから黙っていたが、やはり見落としている人しか見当たらないので書き足して置く。『痴人の愛』はある意味では英語学習の話なのだ。

「え? ナオミちゃん、黙っていないで何とかお云いよ。お前は何をやりたいんだい。何が習って見たいんだい?」
「あたし、英語が習いたいわ」
「ふん、英語と、―――それだけ?」
「それから音楽もやってみたいの」

(谷崎潤一郎『痴人の愛』)

 これが出だしの所。河合譲治は、

 英語は寧ろ始めから西洋人に就いた方がよかろうと云うので、目黒に住んでいる亜米利加人の老嬢のミス・ハリソンと云う人の所へ、一日置きに会話とリーダーを習いに行って、足りないところは私が家でときどき浚ってやることにしました。

(谷崎潤一郎『痴人の愛』)

 学習補助に回る。

「そうです、あの児は賢い児です、しかしその割りに余り英語がよく出来ないと思います。読むことだけは読みますけれど、日本語に飜訳することや、文法を解釈することなどが、………」
「いや、それはあなたがいけません、あなたの考が違っています」
と、矢張老嬢はニコニコ顔で、私の言葉を遮って云うのでした。
「日本の人、みな文法やトランスレーションを考えます。けれどもそれは一番悪い。あなた英語を習います時、決して決して頭の中で文法を考えてはいけません、トランスレートしてはいけません。英語のままで何度も何度も読んで見ること、それが一等よろしいです。ナオミさんは大変発音が美しい。そしてリーディングが上手ですから、今にきっと巧くなります」
成るほど老嬢の云うところにも理窟はあります。が、私の意味は文典の法則を組織的に覚えろと云うのではありません。二年間も英語を習い、リーダーの三が読めるのですから、せめて過去分詞の使い方や、パッシヴ・ヴォイスの組み立てや、サブジャンクティヴ・ムードの応用法ぐらいは、実際的に心得ていい筈だのに、和文英訳をやらせて見ると、それがまるきり成っていないのです。殆ど中学の劣等生にも及ばないくらいなのです。いくらリーディングが達者だからと云って、これでは到底実力が養成される道理がない。

(谷崎潤一郎『痴人の愛』)

 英語学習の指導方法でハリソン嬢と対立する。

 私は多少依怙地にもなって、前にはほんの三十分ほど浚ってやるだけだったのですが、それから後は一時間か一時間半以上、毎日必ず和文英訳と文典とを授けることにしたのでした。そしてその間は断じて遊び半分の気分を許さず、ぴしぴし叱しかり飛ばしました。ナオミの最も欠けているところは理解力でしたから、私はわざと意地悪く、細かいことを教えないでちょっとしたヒントを与えてやり、あとは自分で発明するように導きました。たとえば文法のパッシヴ・ヴォイスを習ったとすると、早速それの応用問題を彼女に示して、
「さ、これを英語に訳して御覧
と、そう云います。

(谷崎潤一郎『痴人の愛』)

 そして間違った英語学習の指導を実践してしまう。

“doing”とか“going”とか云いう現在分詞には必ずその前に「ある」と云う動詞、―――“to be”を附けなければいけないのに、それが彼女には何度教えても理解出来ない。そして未いまだに“I going”“He making”と云うような誤りをするので、私は散々腹を立てて例の「馬鹿」を連発しながら口が酸っぱくなる程細かく説明してやった揚句、過去、未来、未来完了、過去完了といろいろなテンスに亙って“going”の変化をやらせて見ると、呆れた事にはそれがやっぱり分っていない。依然として“He will going”とやったり、“I had going”と書いたりする。私は覚えずかッとなって、
「馬鹿! お前は何という馬鹿なんだ! “will going”だの“have going”だのッてことは決して云えないッて人があれほど云ったのがまだお前には分らないか。分らなけりゃ分るまでやって見ろ。今夜一と晩中かかっても出来るまでは許さないから」

(谷崎潤一郎『痴人の愛』)

 

    そして無茶をいう。そんなものは解る解らないではなく記憶の問題なので量でしのぐしかない。日本語だって自然と上達するものだから仕方ない。


「いや、日本語は殆ど分りません、大概英語でやっていますよ」
「英語はどうも、………スピーキングの方になると、僕は不得手だもんだから、………」
「なあに、みんな御同様でさあ。シュレムスカヤ夫人だって、非常なブロークン・イングリッシュで、僕等よりひどいくらいですから、ちっとも心配はありませんよ。それにダンスの稽古なんか、言葉はなんにも要りゃしません。ワン、トゥウ、スリーで、あとは身振りで分るんですから。………」

(谷崎潤一郎『痴人の愛』)

 そして河合譲治は案外炬燵弁慶なところを見せる。

“Will you dance with me?”
その時そう云う声が聞えて、つかつかとナオミの傍へやって来たのは、さっき菊子と踊っていた、すらりとした体つきの、女のようなにやけた顔へお白粉を塗っている、歳としの若い外人でした。背中を円く、ナオミの前へ身をかがめて、ニコニコ笑いながら、大方お世辞でも云うのでしょうか、何か早口にぺらぺらとしゃべります。そして厚かましい調子で「プリースプリース」と云うところだけが私に分ります。と、ナオミも困った顔つきをして火の出るように真っ赤になって、その癖怒ることも出来ずに、ニヤニヤしています。断りたいには断りたいのだが、何と云ったら最も婉曲えんきょくに表わされるか、彼女の英語では咄嗟の際に一と言も出て来ないのです。外人の方はナオミが笑い出したので、好意があると看て取ったらしく、「さあ」と云って促すような素振りをしながら、押しつけがましく彼女の返辞を要求します。
“Yes, ………”

(谷崎潤一郎『痴人の愛』)

 ナオミも最初は英語が話せなかったが、結びでは立場が客転する。

 自信がなくなると仕方がないもので、目下の私は、英語などでも到底彼女には及びません。実地に附き合っているうちに自然と上達したのでしょうが、夜会の席で婦人や紳士に愛嬌を振りまきながら、彼女がぺらぺらまくし立てるのを聞いていると、何しろ発音は昔から巧かったのですから、変に西洋人臭くって、私には聞きとれないことがよくあります。そうして彼女は、ときどき私を西洋流に「ジョージ」と呼びます。
 これで私たち夫婦の記録は終りとします。これを読んで、馬鹿々々しいと思う人は笑って下さい。教訓になると思う人は、いい見せしめにして下さい。私自身は、ナオミに惚れているのですから、どう思われても仕方がありません。
 ナオミは今年二十三で私は三十六になります。

(谷崎潤一郎『痴人の愛』)

 つまり一面に於いて『痴人の愛』は文法中心の日本の英語教育を批判し、実地の会話に慣れ親しむことによる英語力の向上を示唆する教育指導に関する提案書でもあるのだ。
 いや冗談ではなく、作品はまちがいなくそういう構造を持っている。この話は確かに主人公とナオミの英語に関する立場が逆転したところで終わっている。河合譲治がナオミの肉体の奴隷となって話が終わっている訳ではない。縦軸はあくまで英語学習なのだ
 主人公に「河合譲治」という名前を選んだ時から「ジョージ」と呼ばれることは運命づけられていた筈だ。

 と、こんなことを今更書いてみる。
 当たり前すぎてみんな言わないのではなく、どうもみんな気がついてすらいないと気がついたから。


※ここで野暮な付け足し。

 立場が逆転するのは英語だけじゃないでしょ、という人が現れるかもしれない。いやむしろそこはみんな分かっていて、英語教育という軸が見えていない人が殆どすべてなんじゃないかという話だ。

 そこを書いている人なんか一人もいないでしょ?

 これ、英語の軸がないとふにゃふにゃした話になるなというところが「言われてみれば分かる」というのが私が想定する読者の最低水準。あ、これは野球を軸にした父と子の和解の話だなとか、そういう映画があったよね。で、そこから野球を抜くとどうなるか?

 たとえば『痴人の愛』に芸術的価値があるとすれば、それはまさに文法と自然の対決というところにあるんじゃないかな。受動態だとか仮定法だとか本来ないところに人間の存念で拵えた観念があるとすれば、それを自然の力が突き崩すところに面白みがあるわけだ。それこそ受動態ってなんなのかね、という話だ。されたのかしたのか、そうなったのか、あるいはさせていただくのか。自由意志なんかあるのか。そもそも仮定法って起こり得ないことなんだよね。そんなこと考えてどうする。

 そういう余計な存念を山ほど積み上げてがんじがらめになっている人間の愚かさをナオミは自然に突き崩して行ったわけだ。

 漱石の『二百十日』も「二百十一日」だって気が付いていない人がいるよね。

そこが解らない人はもう少し頑張ってほしい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?