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谷崎潤一郎の『痴人の愛』をどう読むか① 反家庭小説

反家庭小説

 坂口安吾が夏目漱石についてこんなことを書いている。

 夏目漱石という人は、彼のあらゆる知と理を傾けて、こういう家庭の陰鬱さを合理化しようと不思議な努力をした人で、そして彼はただ一つ、その本来の不合理を疑ることを忘れていた。つまり彼は人間を忘れていたのである。かゆい所に手がとどくとは漱石の知と理のことで、よくもまアこんなことまで一々気がつくものだと思うばかり、家庭の封建的習性というもののあらゆる枝葉末節のつながりへ万べんなく思惟がのびて行く。だが習性の中にも在る筈の肉体などは一顧も与えられておらず、何よりも、本来の人間の自由な本姿が不問に附されているのである。人間本来の欲求などは始めから彼の文学の問題ではなかった。彼の作中人物は学生時代のつまらぬことに自責して、二、三十年後になって自殺する。奇想天外なことをやる。そのくせ彼の大概の小説の人物は家庭的習性というものにギリギリのところまで追いつめられているけれども、離婚しようという実質的な生活の生長について考えを起した者すらないのである。彼の知と理は奇妙な習性の中で合理化という遊戯にふけっているだけで、真実の人間、自我の探求というものは行われていない。自殺などというものは悔恨の手段としてはナンセンスで、三文の値打もないものだ。より良く生きぬくために現実の習性的道徳からふみ外れる方が遥かに誠実なものであるのに、彼は自殺という不誠実なものを誠意あるものと思い、離婚という誠意ある行為を不誠実と思い、このナンセンスな錯覚を全然疑ることがなかった。そして悩んで禅の門を叩く。別に悟りらしいものもないので、そんなら仕方がないと諦める。物それ自体の実質に就てギリギリのところまで突きとめはせず、宗教の方へでかけて、そっちに悟りがないというので、物それ自体の方も諦めるのである。こういう馬鹿げたことが悩む人間の誠実な態度だと考えて疑ることがないのである。日本一般の生活態度が元来こういうフザけたもので、漱石はただその中で衒学的な形ばかりの知と理を働かせてかゆいところを掻いてみただけで、自我の誠実な追求はなかった。(坂口安吾『デカダン文学論』)

 安吾らしい遠慮のない言葉は確かに漱石作品のある一面を捉えている。漱石作品は「家」や「家庭」に拘る旧時代の観念に囚われていた。その「家」や「家庭」は概ね下女、下働き、飯炊き、書生という労働力によって機能するものであり、単なる男女の関係性としての「夫婦」ではなく、居住地であり、生活空間であり、経済活動の単位でもあった。

 その家庭の意味を夫婦関係、男女の関係に置き換えて時代を薦めようとした作品の一つが谷崎潤一郎の『痴人の愛』であると云っても良いだろう。『痴人の愛』は反家庭小説である。そこには坂口安吾が指摘したような夏目漱石作品にみられる「家」の窮屈さに対する意識が全くなかったとは言えないだろう。作中にはわざわざ夏目漱石の名前と、「家」の窮屈さに縛られることのない『草枕』から「ヴェニスは沈みつつ、沈みつつ」という一節が引かれる。

 月給百五十円の技士、河合譲治は八年前、カフェの女給ナオミと出会う。河合譲治が二十八歳、ナオミが十五歳だった。

 のみならず、一人の少女を友達にして、朝夕彼女の発育のさまを眺めながら、明るく晴れやかに、云わば遊びのような気分で、一軒の家に住むと云うことは、正式の家庭を作るのとは違った、又格別な興味があるように思えました。つまり私とナオミでたわいのないままごとをする。「世帯を持つ」と云うようなシチ面倒臭い意味でなしに、呑気なシンプル・ライフを送る。―――これが私の望みでした。実際今の日本の「家庭」は、やれ箪笥だとか、長火鉢だとか、座布団だとか云う物が、あるべき所に必ずなければいけなかったり、主人と細君と下女との仕事がいやにキチンと分れていたり、近所隣りや親類同士の附き合いがうるさかったりするので、その為ために余計な入費も懸るし、簡単に済ませることが煩雑になり、窮屈になるし、年の若いサラリー・マンには決して愉快なことでもなく、いいことでもありません。その点に於いて私の計画は、たしかに一種の思いつきだと信じました。(谷崎潤一郎『痴人の愛』)

 これは安吾と同じ意見ではないかと思うが、安吾は賛成も反対もしてくれない。

 だから小説を読むようになったのは非常におそい。中学の同級生の中には小説を大そう読むのがたくさんいて、その一人がぜひ読めといって私に無理に読ませたのが広津和郎さんの「二人の不幸者」という本だ。これが私の小説を読んだ最初の本だ。次に芥川、次に谷崎諸氏の本を無理に読まされ、谷崎さんの「ある少年の怯れ」というのを雑誌でよんで(雑誌だったと思う)大そう感心したように覚えている。(坂口安吾『世に出るまで』)

 谷崎、志賀の文章は、空虚な名文というものにすぎず、たゞ書き表わす対象にだけ主体のある私の文章にくらべて、ニセモノにすぎないものだ。けれども彼らは素質ある人々で、あの時代に生れたからあゝなっただけのこと、今の時代に青年であったら、私と同じ出発をはじめ、私などのおよびがたい新作品を書いているかも知れぬ。(坂口安吾『坂口流の将棋観』)

だから、花田清輝の真価を見たいと思ったら、もっと俗悪な仕事をさせてみることだ。つまり、文芸時評とか、谷崎潤一郎論だとか、そういう愚にもつかない仕事をやらせてみると分る。(坂口安吾『花田清輝論』)

 昔は感心した作品もあったが、中身のない偽物の文章で、ただ有名なだけで論すること自体が俗悪であるといかにも口が悪い。しかもこっそり芥川までディスられていないだろうか。いや、話が散らかるので谷崎の話に戻そう。

紫の上的設定

 これまで繰り返し語られてきた男と女の話の中で『痴人の愛』において特徴的なことは、ウラジミール・ナボコフの『ロリータ』ではないところの男女関係、敢て原型を求めれば『源氏物語』の紫の上と光源氏のような関係が現れることだ。それが「朝夕彼女の発育のさまを眺めながら」という表現のうちに明確に意識されていたとみることはさして穿った見方ではなかろう。

 この設定は、「阿具里」という少女と「十四五からニ三年の付き合いという設定」である『青い鳥』とほぼ重なるが、『青い鳥』には「阿具里」を育てようという意識が見えていなかった。またその余裕もなく慌しく走る勢いのある短篇なので比較の仕様もない。

 河合譲治はナオミを引き取り、本人の希望通り英語と音楽を習わせることにする。河合譲治は二人が見つけた家を「お伽噺の家」と呼ぶ。そして友達のように暮らそうと提案し、何の苦悶もなく別々の部屋で寝る。夏目漱石作品の「家」と比べればまさに「ままごと」なのだが、谷崎は敢えてそういう世界を描こうとしているようだ。

 河合譲治はナオミに恋をしていたかどうか、「よく分かりません」という。そうこれは誰かに語り掛ける「です・ます調」の文体の小説であり、その世界は作者の中に閉じるのではなく、まさに我々に対して物語られているのだ。

 しかし、私は既にその頃ナオミを恋していたかどうか、それは自分にはよく分りません。そう、たしかに恋してはいたのでしょうが、自分自身のつもりでは寧ろ彼女を育ててやり、立派な婦人に仕込んでやるのが楽しみなので、ただそれだけでも満足出来るように思っていたのです。(谷崎潤一郎『痴人の愛』)

 ならば読者はここに、紫の上的設定があるばかりでなく、紫の上的「ふり」があることを見ておかなくてならないだろう。

 河合譲治は鎌倉での海水浴でナオミの肉体美を知り、その後、

 あの歳の夏の、楽しかった思い出を書き記したら際限がありませんからこのくらいにして置きますが、最後に一つ書き洩らしてならないのは、その時分から私が彼女をお湯へ入れて、だのだの背中だのをゴムのスポンジで洗ってやる習慣がついたことです。これはナオミが睡がったりして銭湯へ行くのを大儀がったものですから、海の潮水を洗い落すのに台所で水を浴びたり、行水を使ったりしたのが始まりでした。
「さあ、ナオミちゃん、そのまんま寝ちまっちゃ身体がべたべたして仕様がないよ。洗ってやるからこの盥の中へお這入り」
と、そう云うと、彼女は云われるままになって大人しく私に洗わせていました。それがだんだん癖になって、すずしい秋の季節が来ても行水は止まず、もうしまいにはアトリエの隅に西洋風呂や、バス・マットを据えて、その周りを衝立で囲って、ずっと冬中洗ってやるようになったのです。(谷崎潤一郎『痴人の愛』)

 ……と発展する。しかしまだここには猥褻さがない。いや、それはもう読者の中には根ざしていることだろう。そこは谷崎も計算ずくだ。ただそうやすやすと猥褻にならない。だのだの背中だのを洗って、あそこを洗わない筈がなかろうという理屈は読者の中にだけあり、作中にはない。そんなことを考えるあなたが痴人だ。






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