反家庭小説
坂口安吾が夏目漱石についてこんなことを書いている。
安吾らしい遠慮のない言葉は確かに漱石作品のある一面を捉えている。漱石作品は「家」や「家庭」に拘る旧時代の観念に囚われていた。その「家」や「家庭」は概ね下女、下働き、飯炊き、書生という労働力によって機能するものであり、単なる男女の関係性としての「夫婦」ではなく、居住地であり、生活空間であり、経済活動の単位でもあった。
その家庭の意味を夫婦関係、男女の関係に置き換えて時代を薦めようとした作品の一つが谷崎潤一郎の『痴人の愛』であると云っても良いだろう。『痴人の愛』は反家庭小説である。そこには坂口安吾が指摘したような夏目漱石作品にみられる「家」の窮屈さに対する意識が全くなかったとは言えないだろう。作中にはわざわざ夏目漱石の名前と、「家」の窮屈さに縛られることのない『草枕』から「ヴェニスは沈みつつ、沈みつつ」という一節が引かれる。
月給百五十円の技士、河合譲治は八年前、カフェの女給ナオミと出会う。河合譲治が二十八歳、ナオミが十五歳だった。
これは安吾と同じ意見ではないかと思うが、安吾は賛成も反対もしてくれない。
昔は感心した作品もあったが、中身のない偽物の文章で、ただ有名なだけで論すること自体が俗悪であるといかにも口が悪い。しかもこっそり芥川までディスられていないだろうか。いや、話が散らかるので谷崎の話に戻そう。
紫の上的設定
これまで繰り返し語られてきた男と女の話の中で『痴人の愛』において特徴的なことは、ウラジミール・ナボコフの『ロリータ』ではないところの男女関係、敢て原型を求めれば『源氏物語』の紫の上と光源氏のような関係が現れることだ。それが「朝夕彼女の発育のさまを眺めながら」という表現のうちに明確に意識されていたとみることはさして穿った見方ではなかろう。
この設定は、「阿具里」という少女と「十四五からニ三年の付き合いという設定」である『青い鳥』とほぼ重なるが、『青い鳥』には「阿具里」を育てようという意識が見えていなかった。またその余裕もなく慌しく走る勢いのある短篇なので比較の仕様もない。
河合譲治はナオミを引き取り、本人の希望通り英語と音楽を習わせることにする。河合譲治は二人が見つけた家を「お伽噺の家」と呼ぶ。そして友達のように暮らそうと提案し、何の苦悶もなく別々の部屋で寝る。夏目漱石作品の「家」と比べればまさに「ままごと」なのだが、谷崎は敢えてそういう世界を描こうとしているようだ。
河合譲治はナオミに恋をしていたかどうか、「よく分かりません」という。そうこれは誰かに語り掛ける「です・ます調」の文体の小説であり、その世界は作者の中に閉じるのではなく、まさに我々に対して物語られているのだ。
ならば読者はここに、紫の上的設定があるばかりでなく、紫の上的「ふり」があることを見ておかなくてならないだろう。
河合譲治は鎌倉での海水浴でナオミの肉体美を知り、その後、
……と発展する。しかしまだここには猥褻さがない。いや、それはもう読者の中には根ざしていることだろう。そこは谷崎も計算ずくだ。ただそうやすやすと猥褻にならない。手だの足だの背中だのを洗って、あそこを洗わない筈がなかろうという理屈は読者の中にだけあり、作中にはない。そんなことを考えるあなたが痴人だ。