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『三四郎』の謎について① 野々宮の捜しもの

 いきなりギアチェンジしたかのように小説として上手くなっている『三四郎』は実に謎だらけの作品でもあります。柄谷行人なんかはその謎にさえ気が付かないで「青春小説の金字塔」なんて書いていますが、そんなことでいいんでしょうか?

 いや、駄目だから近代文学2.0をやっているわけなんですが、近代文学2.0においても『三四郎』は捉えきれていません。

 その謎の一つは「野々宮の捜しもの」ですよね。結局それはなかったわけですが、何がなかったのか、何故なかったのか、解明した人はまだこの世に誰も存在しない筈です。そもそもこの謎にさえ気が付いていない人の方が多いように思います。

 野々宮君はしばらく池の水をながめていたが、右の手をポケットへ入れて何か捜しだした。ポケットから半分封筒がはみ出している。その上に書いてある字が女の手跡らしい。野々宮君は思う物を捜しあてなかったとみえて、もとのとおりの手を出してぶらりと下げた。(夏目漱石『三四郎』)

 ここですよ。気が付いてました? そして何を探していたのか解ります?

 一応理屈を言えば、これから買い物をして食事をするので財布ではない。時刻を訊かないので時計でもない。(それに野々宮なら日の高さと季節で大体の時刻は解るかもしれませんね。)

  で、一応私の解釈は「池に浮かんだ白い花」です。つまり捜していたのではなく、ないことを確認していたということです。野々宮は美禰子にやろうと白い花を摘んでポケットに隠し持っていた。しかし美禰子の頭には既に白い薔薇があったのでやらずにしまった。美禰子は手紙を野々宮のポケットに入れる時、その白い花に気が付いて盗んだ。白い花は池に捨てられていた。美禰子の気に入るプレゼント求めて野々宮は蝉の羽根のようなリボンを買った……。

 しかしもう一つ確証に欠きますね。というより「美禰子が白い花を盗む」というところには少し無理があるので、何かもう一つ条件なり、仕掛けなりが必要です。

 要するに別の場面で同じようなことが繰り返されるとかそういうことです。しかし美禰子が掏摸のようなことをする場面は見当たりませんね。まあ、私の捜し方が悪いのかもしれませんが、まだ見つかりません。見つかれば、答えは出たようなものなんですが。『虞美人草』や『それから』には掏摸が出てきますが、『三四郎』には出てきません。それに近い所作もありません。

 この問題は今のところお手上げです。

 もう一つの可能性についても書いておきますか。

 白い花には匂いはありません。三四郎は美禰子が白い花の匂いを嗅いだと認識していますが、それは勘違いで、美禰子は花に呪文を呟いたのかもしれません。事実三四郎はその直後、恋の魔法にかかっていますから。

 そうであれば野々宮は何かを捜していたのではなく、そうみられかねない別の事をしていた可能性がないとも言えません。シェイクスピアの劇にある「誤解」というレトリックを夏目漱石はシェイクスピアより解り難い形で使います。

 しかし、では野々宮は何をしていたのか、ということには思い当たりません。実際そういう動きの別の解釈の可能性について、体を動かし、頭の中で絵を浮かべて、メモ帳に悪戯書きをしてみましたが、これというものにはまだ思い当たりません。その後の行動と繋がることに思い当たらないんですね。白い花は駄目だったから蝉の羽根のようなリボンを買った、というような筋が見つからないんですね。

 この謎はまだ解けません。明日解けるかもしれませんが。


【余談】

 ツイッターでは二つのパソコンで「夏目漱石」「NatsumeSoseki」をデフォルトにしているので、ツイッターを見るたびに知性の欠如に呆れる。驚くことにほぼbotで、残りは感想も何もない引用。例の「月が綺麗ですね」のデマ拡散とそのパロディ。

 引用するのはいい。ではその言葉の意味が解っているのかと問いたい。おそらく解っていないからそんなことをするのだろう。

 キンドル本の既読ページ数が極端に少ないのは、私の本にだけ起きている現象でもないのだろう。圧倒的に多くの人々が今、自分で文章を読み、文章を書くという知性に欠いている。文章を書いても「明治の精神とは明治十年代が持っていた多様な可能性だ」などと噴飯ものの出鱈目を書いてしまう。(柄谷行人)で、その柄谷行人の本を読んだつもりで感心する人がいる。その感想を書く。ちゃんとした大学を卒業して、知性があるふりをしている人がそんなことをする。一体どうなっているんだろう?

 芥川賞の審査員が「『こころ』のKは幸徳秋水、あるいはキング、天皇です」と堂々と書き(島田雅彦)、それに感心する人がいる。Kは苗字ではない、あなたは審査員をしたり、教職に就く資格がない、と批判する人がいない。高橋源一郎もやはりKを苗字だと誤読している。しかし誰も批判しない。何か厳しいことを書いているようですが、これが理系の話なら追放されていないと可笑しいですよね。いや、理系でなくても文学以外の業界では、読解力のない教授なんて絶対認められないでしょう。そしてそんな人を支持している人も同罪ですよね。

 問題はそれなりの知性がある筈の人が、近代文学に関しては徹底してお馬鹿であるということに尽きる。あまりにもほかのことに脳みそを使いすぎてこうなっているのか、それとも近代文学とは、この宇宙で、この私にのみ与えられた仮構なのか。

 あるいはこの世には私のみ存在していて、残りはbotなのか。






 それとなくテスラ自慢。

 わかる/らない






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