谷崎潤一郎の『卍』をどう読むか① 腸は体の内部でしょうか
それは吉祥だ
私はこれまで谷崎作品に関して、
谷崎潤一郎作品の多くに、天皇批判が現れること。いくつかの作品にさして意味の取れない事実のすり替えが見られること。そして谷崎の立場は基本的に「ドミナ捏造説」に依っていること。
などを指摘してきた。天皇批判は『誕生』の「億兆の國民」から始まる。
意味の取れない事実の差し替えは『刺青』に始まる。
「ドミナ捏造説」は『幇間』の萌芽が『アエ゛・マリア』で理論立てられる。
その他に『あくび』に「ティーンエイジスカース」を指摘したり、
昨日は『吉野葛』の隠れた天皇批判を指摘したりしてきた。
三島由紀夫や夏目漱石に比べて、一般に流通している「谷崎潤一郎論」というのはごく限られていて、それらを確認した範囲では私の指摘はやはり谷崎潤一郎論2.0の水準にあると言って良いだろう。
例えば『途上』がどういう筋なのか、河野多恵子は理解できていない。
つまり「本を読む」という最低水準を満たしていない。その点では阿刀田高と河野多恵子は同じレベルにいる。
不思議なことに「ある作家のファン」を自認する人でさえ、その作品がきちんと読めていることは殆どない。それは例えば稀代のマゾヒストであり、稀代の奇書『家畜人ヤプー』の著者・沼正三も同じだ。あの沼正三ですら、何故か「ドミナ捏造説」に気が付かない。
だから谷崎潤一郎論2.0は困難なのだ。まるで何も中身のない人格破綻者のように、馬鹿を罵るかのように、「高飛車」と取られかねない角度から語らねばならない。そんなつもりはまるでないのに。
こう書かれて、「なるほど夏目漱石の『坑夫』みたいなことが谷崎にもあったのか」と読む読者は一人もいまい。
谷崎潤一郎は小説家だ。しかも信用ならない小説家だ。この信用のならない男は神に見放されても自分自身を信じるそうだ。
いや、仏を信じていたんじゃないのか、と言いたくもなる。神に見放されても仏がいたらいいじゃないか。なにやらトラブルめいた話の題名が『卍』であることに善良な読者はアントニオ猪木の卍固めを思い出しもするようだ。それは卍巴の卍だが、卍とはそもそも仏心を現す吉祥である。ただ卍巴の形だけを見るのはいかがなものか。
わたしと私?
この『卍』という小説には「わたし」が111回、「私」が350回使われている。先生は36回、そのうち9回は校長先生なので、先生は実質27回しか出てこない。この先生は何故「わたし」、あるいは「私」に優しいのか、「わたし」と「私」の違いは何か、柿内孝太郎は綿貫栄次郎と関係を持つことになるのか、ならないのか、柿内孝太郎は長男で綿貫栄次郎は次男なのか、そんなことを考えさせる書き出しだ。いや、柿内孝太郎と綿貫栄次郎という名前はまだ出てこないので、ここでは先生の魂胆と、「わたし」と「私」書き分けの意味が気になるだけだ。しかしすぐにあのことが気になる。
そう。「肉体上の関係」とはそもそも何なのだろうかと。これが男女の間のことであれば小学七年生の私にはまるで分からない。ではこれが仮に女性同士であったとしたら、まだ三歳の僕にはこれが哲学的命題のようにいくつものレベルの答えを持っているように思えてくるのだ。女性同士で行われるその行為はそれを男女に置き換えれば未遂になってしまうのではなかろうか。ある医師が、腸に免疫細胞が多い理由を説明する為に、腸は体の内部でしょうか、それとも外部でしょうかとクイズを出していた。
そこでさらに「肉体上の関係なかったのんなら告白しやすい訳やから」というロジックに疑問が湧いてくる。肉体と精神のどちらに重きを置くべきなのか、と考えてしまうのだ。
そんなことは考えてもしょうがないので、風呂に入って寝よう。
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