見出し画像

芥川龍之介の『文章と言葉と』をどう読むか② 百年は持たない

 五十年前の日本人は「神」といふ言葉を聞いた時、大抵髪をみづらに結ひ、首のまはりに勾玉をかけた男女の姿を感じたものである。しかし今日の日本人は――少くとも今日の青年は大抵長と顋髯をのばした西洋人を感じてゐるらしい。言葉は同じ「神」である。が、心に浮かぶ姿はこの位すでに変遷してゐる。
  なほ見たし花に明け行ゆく神の顔(葛城山)
 僕はいつか小宮さんとかういふ芭蕉の句を論じあつた。子規居士の考へる所によれば、この句は諧謔を弄したものである。僕もその説に異存はない。しかし小宮さんはどうしても荘厳な句だと主張してゐた。画力は五百年、書力は八百年に尽きるさうである。文章の力の尽きるのは何百年位かかるものであらう?

(芥川龍之介『文章と言葉と』)


 芥川より少し先輩で芥川より長く生きた谷崎潤一郎の文章と云うものを芥川の文章と読みくらべてみると、例えば『あくび』などの現代ものに関しても、芥川の現代ものの方がより読みやすい感じ、いわゆる書き言葉のお手本のように感じる。妙な癖やごつごつしたところ、古い言い回し、装飾がなく、すっと入ってくる感じがある。


 だからと言って芥川の文章が新しい日本語の見本になったとまでは言わないが、芥川の文章が自然であることはアポロ型を目指した結果でもあろうか。性格はひねくれているが、芥川の文章は素直な感じがする。そして鑑賞も。

 ここで「小宮さんはどうしても荘厳な句だと主張してゐた」といい「文章の力の尽きるのは何百年位かかるものであらう?」として、芥川が小宮の見立てを痛烈に批判していることが私には妙に面白い。

 小宮と云えば言わずと知れた漱石神社の神主であり、漱石を神と祭った第一人者である。その『漱石全集』編纂の功績は讃えられるべきものであり、彼の解説により漱石作品に対する理解が深められる点は多々あった。しかしながら漱石神社の神主と言われるように、漱石愛に目が眩み、やや持ち上げ過ぎの所があり、やや大げさに解説してしまうところがなかったとは言えまい。

 この「一郎の三択」は江藤淳、柄谷行人へと伝染し、ついには一般人の感想文にまで現れる文学ミームのようなものになってしまった。私がそんなものはないと書いても、もう「月が綺麗ですね」のように取り返しがつかないことになっているのかもしれない。

 だから、

 この問題。

 構成上「清が死んでいること」→解る。「一郎が死んでいること」→認めたくない。なんてことになっているのではなかろうか。

 死ぬまで認めないでいた方が平和かもしれない。「この俺様」が夏目漱石作品を読み誤り、とんでもない出鱈目を書いていたとは誰しも認めたくない事実であろう。

 ただ、この理屈は誰しもがアクセス可能な空間に開放されていて、隠すことはできない。やがて「果たして一郎は死んだのだろうか、それともいきているのだろうか」と書いていた人たちは、文章読解力のない全員単なるお馬鹿に昇格する。

 しかしまあ芥川の「子規居士の考へる所によれば、この句は諧謔を弄したものである。僕もその説に異存はない。」という読みは案外重要で、芭蕉の「神」が「大抵髪をみづらに結ひ、首のまはりに勾玉をかけた男女」という人格神であれば、人間味と云うものがあってしかるべきで、揶揄われるくらいの愛嬌があってしかるべきなのだ。それを絶体神のように取り扱ってはおかしなことになる。

 実朝の歌にも「おもしろいもの」があり、

 太宰の『人間失格』のユーモアに気が付かない人は、大いに損をしていると思う。人生の何分の一とは言わないが。

 そして突然私は昨日書いたこと記事


 これに重大な見落としがあったことに気が付く。この『文章と言葉と』は如何にも小品で、注文の原稿枚数も少なかったのだろう。ここに『夏目漱石論』を持ち込むことには無理がある。しかし書いていることは「昔と今では同じ言葉でも意味が違う。小宮豊隆の芭蕉の句の鑑賞は間違っている。文章の力が尽きるのは何百年の後だろうか」という筋ながら、要点はまさに「小宮の鑑賞は間違い」ということである。

 ここには対象が芭蕉であり、漱石ではなかったという明白な事実がある。そして芥川龍之介に『夏目漱石論』はない。

 つまり芭蕉を対象にしてみれば「小宮の鑑賞は間違い」とハツキリ書けたものを、芥川はどうしても小宮の漱石論には言及できなかったのだ。

 小宮豊隆と云えば漱石の一番弟子。(寺田寅彦は待遇として別格。鈴木三重吉は小宮が連れてきた。)芥川にしてみれば漱石山脈の大先輩、恐らく当時確認できた漱石の原稿、手紙、メモ類を全部読み、漱石の家に出入りした回数も最も多く、さまざまな逸話を実際に見聞きした当事者である。この小宮豊隆に直接接している芥川が正面切って、その漱石論を完全否定するような真似は出来まい。

 だから芥川には漱石論がない。

 芭蕉に関してなら安々と批判できるのに。

「今度のことは全然冤罪ですから、どうか皆さんにそう言って下さい。」
 従兄は切り口上にこう言ったりした。僕は従兄を見つめたまま、この言葉には何とも答えなかった。

(芥川龍之介『冬』)

 芥川龍之介に『夏目漱石論』はない。何とも答えなかった。しかし答えたならば、それは小宮の漱石論とは相容れないものなのではなかったか。だから小宮の鑑賞眼を否定こそすれ、そこに止めたのではなかろうか。

 僕はやはり木枕をしたまま、厚い渋紙の表紙をかけた「大久保武蔵鐙」を読んでいました。

(芥川龍之介『手紙』)

 もしも屈託のない漱石ファンなら、ゼームスやベルクソンやポアンカレ―を読んでもいいだろう。しかし芥川は今更のように、恐らく漱石が見向きもしないような「大久保武蔵鐙」を持ち出す。

 芥川が自らを「文章上のアポロ主義を奉ずるもの」として排したもう一方には、実は泉鏡花ではなく夏目漱石がいたのか?

           ☆

 何度か書いているように私が芥川作品の語句や、言い回し、筋や構成の細部を点検しながら探しているのは、「芥川作品は夏目漱石文学をいかに継承したのか、あるいはしていないのか」という問題である。寧ろ芥川が墜落したかどうかはどうでもいい。仮に芥川に漱石文学が継承されなかったとするならば、近代文学史は漱石と谷崎の間のようなすれ違いでしかないことになってしまう。

 谷崎が泉鏡花の弟子ではなく永井荷風の弟子?

 三島由紀夫が谷崎の弟子ではなく川端康成の弟子?

 太宰治の師匠が井伏鱒二?

 無論芥川の心の師は森鴎外であり、太宰の心の師は芥川なのだろう。森鴎外ラインはあっさりつながる。しかし漱石ラインは内田百閒で途切れる。

 このことを、このことの意味をいつかまた思い出し考え直す日が来るだろう。しかし今日は具合が悪いので、ここまでにする。

 


[余談]

 横光利一に『蛾はどこにでもゐる』という小説がある。

 この「蛾」も昔と今とでは違う。鴉も違う。鼠も違う。

 矢の根も違う。


竜宮苦界玉手箱 : 3巻


竜宮苦界玉手箱 : 3巻

 どうも猿顏は焼きめしが好きらしい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?