「ふーん」の近代文学24 谷崎の「ふーん」
谷崎の文学世界は不自然だと三島由紀夫は書いている。(『「国を守る」とは何か』)。不自然というのは「時代と歴史の運命から超然としている」からだ。
そのことは谷崎の初期作品に猛烈な天皇批判を見出してみればさも尤もな話で、正直私自身は、三島由紀夫が絶賛するようには後期作品を素直に読むことができない。谷崎源氏まではいいとして『瘋癲老人日記』となると、片仮名がやかましいというのではなく、わざとらしさがくどすぎて、鴎外の『北條霞亭』を読んでいるような気分になる。安部公房の『カンガルー・ノート』のように楽しむことができない。
そもそも「谷崎の初期作品に猛烈な天皇批判を見出してみれば」という前提がいかに伝わりにくいものであるかということも解った。三島由紀夫でさえ『刺青』が時代を批判していることに気が付かない。
かりに見逃したとしても『麒麟』を読めば分かる筈だが、引用された論語でさえ、「ふーん」してしまう人が殆どなのであろう。
今の政治に携わるのは危険なことだよ、と書くこと自体が当時は猛烈な体制批判であった、という事実もやはり伝わりにくいものなのだろう。現に今は官僚の決めたことを公表する総理大臣個人に罵詈雑言を浴びせるツイッターになれてしまっているので、危険の意味も伝わらないかもしれない。
さらに言えば今の若い人にとって注釈のついていない谷崎潤一郎全集を読むことは難儀であり、谷崎潤一郎という作家はまず『卍』『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』の作者であり、エロス作家だという刷り込みがあるからであろう。実際に『刺青』が読まれるのは、
この文庫本によってというのが殆どだろうし、この本には「誕生」や「麒麟」は入っていない。「刺青」「少年」「幇間」「秘密」「異端者の悲しみ
」「二人の稚児」「母を恋うる記」では剣呑さが確定しないかもしれない。
そして後期谷崎作品はこうした露骨な社会風刺から総退却したように見えることも事実だ。
しかし私にはまだその境目が明確ではない。佐藤春夫とごちゃごちゃやっている間にいつの間にか消えてしまったようにも思えるし、そもそも政治批判は谷崎の本質的なものではなく、最初から愚痴程度のものであったとも言えなくもないように思える。
ただ解らないのは風巻のことだ。
この風巻に関する謎の言説に根拠があるならばと『吉野葛』を読みかけたが途中で迷子になってしまった。
最初はいい。構想がいい。しかし話はなにもかもうやむやなまま幻として立ち消えてしまう。それでいて、これはなかろう。
風巻を無視すれば、谷崎は時代と歴史の運命を「ふーん」したといって良かろう。三島由紀夫は「谷崎の道」を歩まないことにした。
しかしもしかすると谷崎潤一郎は不自然に時代と歴史の運命を「ふーん」したのではないかもしれないと疑うのは、こんな作品があるからだ。
自分の両親のセックスを新聞掲載の原稿に書く……それは並大抵の作家に出来ることではない。しかもこの後母親がほほ笑んでいたと書く。
その心は? と問う前に、その心が何であろうと、谷崎潤一郎という作家が常識という箍のはずれたなにがしかであることは認めてよいだろう。先ほど私は『瘋癲老人日記』は「わざとらしさがくどすぎて」と書いた。『或る時』にも小さな細工がないではないが、こちらは「自然さが酷すぎて」呆れてしまう。これは断じて惚けではあり得ない。
そう捉えてみると三島由紀夫が認めた不自然さの正体は『或る時』の根っこの部分と繋がっているのではなかろうか。谷崎潤一郎という作家は『神様の愛い奴』の奥崎謙三のようなところがありはすまいかと今私は疑っている。究極のマゾヒズムが原爆を受容することであれば、谷崎はマゾヒストではなかった。沼正三はマゾヒストである。
谷崎は本物のマゾヒストではなかったのかもしれないが、本物の何かである。
この「全学連ノ反主流派」という表現が特別過ぎない時代、「全学連」と括られない時代を谷崎は生きていた。政治は「打ツカラナイヨウニスレバイヽ」ものだった。
一方女体はさばりつきたいものであり、谷崎潤一郎はばりつく作家であった。
[余談]
虚構新聞かと思った。
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