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谷崎潤一郎の『吉野葛』をどう読むか① ただ面白い話を書く訳もなく

 読者のうちには多分ご承知の方もあろうが、昔からあの地方、十津川、北山、川上の荘あたりでは、今も土民によって「南朝様」あるいは「自天王様」と呼ばれている南帝の後裔に関する伝説がある。この自天王、―――後亀山帝の玄孫に当らせられる北山宮やと云うお方が実際におわしましたことは専門の歴史家も認めるところで、決して単なる伝説ではない。ごくあらましを掻い摘んで云うと、普通小中学校の歴史の教科書では、南朝の元中九年、北朝の明徳三年、将軍義満の代に両統合体の和議が成立し、いわゆる吉野朝なるものはこの時を限りとして、後醍醐天皇の延元元年以来五十余年で廃絶したとなっているけれども、そののち嘉吉三年九月二十三日の夜半、楠二郎正秀と云う者が大覚寺統の親王万寿寺宮を奉じて、急に土御門内裏を襲い、三種の神器を偸み出して叡山に立て籠った事実がある

(谷崎潤一郎『吉野葛』)

 吉野葛というから文豪飯の話が始まるかと思いきや、いきなり南朝の話が始まる。「僕の忠義は幻の南朝に捧げられたものだ」と嘯いた三島由紀夫に、

三島由紀夫は、野暮なことを嫌った都会人の谷崎は自身の格闘を見せることをせず、「なるたけ負けたような顔をして、そして非常に自己韜晦の成功した人」だと論じている。しかしながら、三島はその谷崎の小説家としての天才を賞揚しつつも、その作品群が激動の時代を生きながらも、あまりに社会批評的なものを一切含まずに無縁であることが逆に谷崎の本然の有り方でないともし、「谷崎氏の文学世界はあまりに時代と歴史の運命から超然としてゐるのが、かへつて不自然」とも述べて、

(ウイキペディア「谷崎潤一郎」より)

 ……などと云われてしまう捻じれは、これまで真面目に議論されてきたことがあっただろうか。

 風巻景次郎にフォーカスすると、

昭和初期の風巻による中世文芸の見直しにより、文壇にも谷崎潤一郎『吉野葛』など中世ものの傑作が生まれた。保田與重郎『後鳥羽院』などもあり、南朝を吉野朝と呼ぶ南朝正統論と相まって、昭和戦前の文化全体に与えた影響は大きい。古今、新古今の見直しは、昭和後期の大岡信、梅原猛、菱川善夫らによって引き継がれている。

(ウイキペディア「風巻景次郎」より)

 むしろ谷崎の『吉野葛』は風巻の影響下で生まれた社会批評的な意味合いを持った作品であるかのようだが、これまで見てきたように谷崎作品はそもそも万世一系の血脈を呪い、天孫を人の子の命と再定義する『誕生』から始まっていた。「社会批評的なものを一切含まずに無縁」「時代と歴史の運命から超然としてゐる」などというものではけしてあり得なかったのだ。

 つまり谷崎作品は「昭和初期の風巻による中世文芸の見直し」を待つまでもなく、最初から社会批判的であり、時代と歴史の運命と向き合っていたのだ。

 しかし何故かそうでないことにされた。

 寧ろ確かに谷崎には『吉野葛』があるのに、女だけに向き合ってきたと総括されてきた。そして三島由紀夫までが訳の分からないことを言って「隠ぺい」に加担したようなところがないだろうか。『吉野葛』は昭和六年に書かれた。三島由紀夫がこれを読んでいないと考えることがむしろ「かへつて不自然」だろう。では三島由紀夫は一体何を思い、「社会批評的なものを一切含まずに無縁」「時代と歴史の運命から超然としてゐる」などと語ったのだろうか。

 北朝を正統とする穏便な歴史に抗して、今更「三種の神器を偸み出して叡山に立て籠った事実がある」と書かれているのに、谷崎は女だけに向き合ってきたと言われる。

 この時、討手の追撃を受けて宮は自害し給い、神器のうち宝剣と鏡とは取り返されたが、神璽のみは南朝方の手に残ったので、楠氏越智氏の一族等らは更に宮の御子お二方を奉じて義兵を挙げ、伊勢から紀井、紀井から大和と、次第に北朝軍の手の届かない奥吉野の山間僻地へ逃れ、一の宮を自天王と崇め、二の宮を征夷大将軍に仰いで、年号を天靖と改元し、容易に敵の窺い知り得ない峡谷の間に六十有余年も神璽を擁していたと云う。それが赤松家の遺臣に欺かれて、お二方の宮は討たれ給い、ついに全く大覚寺統のおん末の絶えさせられたのが長禄元年十二月であるから、もしそれまでを通算すると、延元元年から元中九年までが五十七年、それから長禄元年までが六十五年、実に百二十二年ものあいだ、ともかくも南朝の流れを酌み給うお方が吉野におわして、京方に対抗されたのである。

(谷崎潤一郎『吉野葛』)

 この書きようは明らかに南朝の末裔に敬意を払って書かれている。無論これは日本がボロボロになる前に書かれた。三島由紀夫の『英霊の聲』のような怨念が感じられるものではないこともまた明らかだ。ただ谷崎は面白い歴史小説が書けないものかと思案しているのだ。

 すべてがそんな土地柄であるから、南朝の宮方にお仕え申した郷士の血統、「筋目の者」と呼ばれる旧家は数多くあって、現に柏木の附近では毎年二月五日に「南朝様」をお祭り申し、将軍の宮の御所跡である神の谷の金剛寺において厳そかな朝拝の式を挙げる。その当日は数十軒の「筋目の者」たちは十六の菊のご紋章の附いた裃を着ることを許され、知事代理や郡長等の上席に就くのである。
 私の知り得たこう云ういろいろの資料は、かねてから考えていた歴史小説の計画に熱度を加えずにはいなかった。南朝、―――花の吉野、―――山奥の神秘境、―――十八歳になり給ううら若き自天王、―――楠二郎正秀、―――岩窟の奥に隠されたる神璽、―――雪中より血を噴き上げる王の御首、―――と、こう並べてみただけでも、これほど絶好な題材はない。何しろロケーションが素敵である。舞台には渓流あり、断崖あり、宮殿あり、茅屋あり、春の桜、秋の紅葉、それらを取り取りに生かして使える。しかも拠り所のない空想ではなく、正史はもちろん、記録や古文書が申し分なく備わっているのであるから、作者はただ与えられた史実を都合よく配列するだけでも、面白い読み物を作り得るであろう。

(谷崎潤一郎『吉野葛』)

 まさかね。
 こんな話者の言い訳など、全く信用に値しない。何しろこれを書いているのはあの谷崎潤一郎なのだ。

 谷崎潤一郎の『法成寺物語』は四幕の芝居だ。筋はなんということはない。藤原道長が自分の女の顔に似せて菩薩を掘らせ、それを拝ませようと企む。拝ませるのは衆生ばかりではない。御仏の前では一天萬乗の君も頭をたれることを見越してのたくらみだ。

 『法成寺物語』を書いた男がただ面白い読み物を書く訳もない。




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