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芥川龍之介の『歯車』をどう読むか36 遅れたのは朝飯の為ではない
村上春樹の小説には主人公がセックスをするというポリシーでもあるのか、とにかくセックスをする。遠慮がない。芥川龍之介にも『好色』といういささか過激な作品があるが、流石にストレートにセックスをする話は……これまで書いてこなかったと記憶している。『女』もその後の話だ。勿論『歯車』にもそういうシーンはない。
ところで谷崎潤一郎の『或る時』という短い話にこんなことが書かれている。
と、母が四つ這ひのやうな形でうつむいて、枕にこめかみをあてゝ、ちやうど縁側に立つてゐる私の方へ顔を向けてゐた。庭の明りのさす方へ向けてゐるわけなので、母の白い顔がよく見分けられた。その顔には苦痛の表情はなかつたけれども、私は母が癪か何かを起こしてゐて、父が上から背中を押してゐるのだと思つた。なぜなら母の顔の上に父の顔があつて、二つが上下に重なり合つてゐたからであつた。
初出は新聞だという。しかし谷崎潤一郎という作家をとことん信用していない私は、これを読んでもさして感情を刺激されない。それがいかにも居心地の悪いタブーなモチーフであるかということは良く理解できるけれども、身につまされるようなことはない。この結びのせいでもある。
少年の時に見たあの光景の記憶は、幾分かでも此の不孝の子の悲しみを和らげ悔恨を輕くしてくれるのである。
谷崎潤一郎はふざけている訳ではなかろう。実はその時両親は微笑を浮かべていたのだ。慌てふためくこともなく。しかもそれは朝の出来事で、「僕」は十一二から十五六歳。わざわざ土蔵を改造して座敷にされた観音開きの奥の中硝子の障子越しに……。
小説家というものは何でも書くものだ、と感心していいのは、その他大勢の場合だ。書いている方にしてみても自分のことととられかねない部分に関しては気を使うだろうというのは勝手な思い込みだ。
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谷崎潤一郎はこんな男だ。そして芥川は神になれると信じ神になろうとした男だ。『或る阿呆の一生』には「インデキスをつけずに貰ひたい」と書いた。どこまでも小説家だと思うのはそう言うところだ。
書いている意味が解らない?
昨日私は『歯車』という小説が大変色んな要素を詰め込んだ「やかましい」小説でありながら、極めて善良で温厚な人たちに、間もなく自殺する精神病患者の幻覚と苦悩の告白として読まれてしまっているという「受容」のされ方をしており、それが一つの成功であるというような話を書いた。
この「受容」という捉え方において谷崎潤一郎は『或る時』でやはり小さな一つの成功を勝ち取ってはいまいか。つまり「両親の微笑」「朝の出来事」「十一二から十五六歳」「土蔵を改造して座敷にされた観音開きの奥の中硝子の障子越し」それから新聞掲載といった分量からして十分「やかましい」要素を嵌め込みながら、全ての読み手を黙らせるという圧倒的な成功が現にあったわけである。
谷崎潤一郎の「或る時」を初めて読んだ。この一篇について、誰かが何か書いているのを見かけたことがないし、実際に何を言えるわけでもなく、またわたしも「読んだ」としか言えずにただ口をつぐんでしまうだけだが、永遠に記憶に残ることは間違いない。
— Problem Paradise (@propara) January 25, 2023
勿論『歯車』にしても『或る時』にしても、その文学的価値はそうした一般的な「受容」のその先にある。
朝っぱらからいい年の息子に見せつけるようにしている両親の微笑の意味を理解する事、それは感受性や理智の働きなしにはあり得ないことだ。牧羊神の顔を見る事、性的にも母親に慰めを与えていることを意識している息子を見る事、十二三の女生徒を一人前の女と感じる「僕」をさらす事、それらは平たい常識や理性からは確かに逸脱しているが、もしも小説という嘘話になにがしかの真実、「何か本当のこと」が書かれているとしたら、まさにそれらなのではなかろうか。
例えば銅貨と銀貨では大きさも色も違うのでなかなか間違えないと思う。定休日のレストランのドアも押さないだろう。ただ「性的にも母親に慰めを与えていることを意識している息子」というモチーフには嘘はなかろう。それは現にそうした実在のモデルを目撃したという意味ではなく、そういう感受性や理智の働きが芥川龍之介の中であったという意味である。
全く同じ意味で谷崎潤一郎の中ではその朝、両親の笑顔を見たのだろう。それが「十一二から十五六歳」の間のことで季節も覚えていないというのは、さすがに無理があるように思える。しかしそれもその時は意味が解らず克明な記憶とならなかったものが、後でその場面だけが思い出されるので時期が曖昧なのだという結果としてのリアリティを生んでいる。
事実がどうであったかということはむしろどうでもよろしい。余計な「インデキスをつけずに貰ひたい」と思う。両親の笑顔の意味を理解する、それだけのために『或る時』は書かれている。
しかし今小説は野呂松人形のように悠長に眺められている。
僕は、金色の背景の前に、悠長な動作を繰返している、藍の素袍すおうと茶の半上下とを見て、図はからず、この一節を思い出した。僕たちの書いている小説も、いつかこの野呂松人形のようになる時が来はしないだろうか。僕たちは、時代と場所との制限をうけない美があると信じたがっている。僕たちのためにも、僕たちの尊敬する芸術家のためにも、そう信じて疑いたくないと思っている。しかし、それが、果して、そうありたいばかりでなく、そうある事であろうか。……
大正五年の危惧は当たった。今殆どの人は小説を眺めるだけで読むことが出来なくなっている。なんならAudibleで聞き流して「読破」と言ってみる。書いてあることが読めない。
例えば『歯車』の冒頭、その仕掛けに誰も気が付かない。結婚披露式に妻同伴でなく向かう「僕」は何故汽車の時刻に遅れたのか。それは朝っぱらから妻がいなくても出来ることをしていたからではないのか。それは手の込んだ朝食づくりではないことが、殆ど固形物を口にしないという『歯車』の基調から明らかだ。
遅れたのは朝飯の為ではない。
その後「僕」はココアを飲む。何かを補うかのように。
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違うよ。
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