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岩波書店・漱石全集注釈を校正する33 旗本の割戻は歯どめがなくっちゃ足踏だ

元は旗本だ

これでも元は旗本だ。旗本の元は清和源氏で、多田の満仲の後裔だ。

(夏目漱石『坊っちゃん』)

 岩波書店『定本 漱石全集第二巻』注解は、「清和源氏」「多田の満仲」の説明に留める。

 夏目家の「直」は夏目四兵衛情、夏目四兵衛晴、夏目小兵衛克、夏目道、夏目小兵衛基、夏目小兵衛克と受け継がれてきたようだが、夏目家の先祖は兄・夏目直矩ともども意識の中ではもっと遥か昔、鎮守府将軍六孫経基(源 経基)の五男、源満快にまで連なる。

滿快の末で夏目左近將監國平といふのが、信州伊奈郡に住んで夏目の邑を領し、將軍賴家に仕へたとある。

(『夏目漱石』赤木桁平 著新潮社 1917年)

夏目田てふ村有り、夏目左近將監國平、奥州の役、泰衡追討の賞として、信濃國夏目村の地頭職を給ふといへるは此地にや

。(『日本伝説叢書 信濃の巻』藤沢衛彦 編日本伝説叢書刊行会 1917年)

 夏目彌郞信賴なる人永祿四年川中島の合戰にも父と共に從つて軍功を立てたが、勝賴天目山に沒落後は、武州岩槻に移つて隱れ棲むだ。

(『夏目漱石』赤木桁平 著新潮社 1917年)

 彌郞の子權郞氏正は近習馬廻役を勤めて居る間、病の故に致仕して高力家を退去し、武州豐島郡牛籠(著者云ふ。牛籠は卽ち牛込なり)の郷に隱れて郷士と成つたとある。

(『夏目漱石』赤木桁平 著新潮社 1917年)

 夏目四兵衛直情は權三郞氏正の子である。ここで唐突に「直」の字が現れ、三郎が四兵衛になる。一方で夏目左近の系譜では「信」の字が受け継がれ、幕末明治にかけて要職にあったようだ。

 「幕府の要路に賄路を贈り、側衆平岡丹波守道弘·夏目左近將監信明等と結び、また其の妹が前將軍家慶の嬖幸杉お廣の方氏で、大奥に勢力があつたのを利用して、將軍の身邊及び大奥の有力者を自派に傾かしめたと稱せられた」
「紀州派これに對して紀州慶福を擁立せんとする一派が起つた、これはまづ紀州の附家老水野土佐守忠央が、御側衆平岡丹波守道弘、夏目左近將監信明等と結んで將軍と大奥とを動かしたるより始まつたのである。」
「夏目左近將監信明等は、夙に彼の黨となり、遂に、將軍安政四年家及大奥の輩をして南紀に傾かしめ、安政四年五月の頃には、南紀黨の羽翼昨夢紀事旣に成ると傳へられたり。」

徳川慶喜公伝 一

 
 夏目漱石の身分は戸籍上飽くまで平民であり士族ではない。しかし血統を横にずらすと旗本になる。本人の意識の上ではどこか源満快につらなるようなところがあったようだ。



頂戴した月給を学校の方へ割戻します


「いえ、ちっとも心配じゃありません。こんな事が毎晩あっても、命のある間は心配にゃなりません。授業はやります、一晩ぐらい寝なくって、授業が出来ないくらいなら、頂戴した月給を学校の方へ割戻します」

(夏目漱石『坊っちゃん』)

 この言い分ではあたかも「おれ」が月給の前払いを受けていたかのようだが、当時も月給は後払いで、前借はあっても前払いはなかったようだ。ここにも注解が欲しいところ。

どういう了見だか、赤シャツのうちへ朝夕出入して

 この野だは、どういう了見だか、赤シャツのうちへ朝夕出入して、どこへでも随行して行く。まるで同輩じゃない。主従みたようだ。赤シャツの行く所なら、野だは必ず行くに極っているんだから、今さら驚ろきもしないが、二人で行けば済むところを、なんで無愛想のおれへ口を掛かけたんだろう。

(夏目漱石『坊っちゃん』)

 どういう了見だか、という言い回しで漱石は読者にその了見を考えさせることがある。ここもその場面。了見は了簡とも書かれる。(『野分』)


歯どめがなくっちゃ自転車へ乗れない


 ここにも注が付かない。では「自転車の歯止め」とは万人が了解しているものなのだろうか?

 野だがどの部分を指して「自転車の歯止め」と捉えたのか、実は定かではない。

第一政経研究所 編第一出版 1948年
機械の素 浅川権八 著浅川七之助 1940年
自転車全書 松居松葉 (真玄) 著内外出版社 1902年

 自転車のペダルは踏み込めば歯車を回すが、止めれば「歯止め」になるわけではない。つまり普通に考えると「歯止め」はブレーキとなる。
 しかし一応ペダルの事を「歯止め」とする呼び方もある。昔の自転車は惰力走行をしなかったとすればペダルが「歯止め」になるわけだ。ごく一般的には歯車の動きを止めるものが「歯止め」なので、ここは野だが惰力走行をしない自転車、ベロシペードを想定してペダルのことを「歯止め」と呼んだと一応仮置きしておこう。


明治奇聞 第3編 宮武外骨 編半狂堂 1926年


 

バッタだろうが足踏だろうが


 岩波書店『定本 漱石全集第二巻』注解は、

足踏 初出依頼「雪踏」と印字された。原稿は「足踏」と書く。原稿を踏まえ、米つき装置もしくは鳴子をさす「ばったり」とする解もある。

(『定本 漱石全集第一巻』岩波書店 2017年)

 ……とある。何とも煮え切らない解釈だ。「とする解もある」とは典拠も読者に探させ、判断も読者に委ねたということか。やはり「足踏」は「雪踏(せった)」の誤り、書き損じとして解釈すべきではなかろうか。

堀田が生徒を煽動しておれをいじめたと云うのか

堀田がおれを煽動して騒動を大きくしたと云う意味なのか、あるいは堀田が生徒を煽動しておれをいじめたと云うのか方角がわからない。

(夏目漱石『坊っちゃん』)

 ここも注がない。これは作品解釈における重要なポイントなので、何か欲しいところ。

「それがさ、中学校の教師なんて、あれでなかなか悪るい奴がいるもんだぜ。僕らあ煽動されたんだね、つまり。今でも覚えているが、夜十五六人で隊を組んで道也先生の家の前へ行ってワーって吶喊して二つ三つ石を投げ込んで来るんだ」
「乱暴だね。何だって、そんな馬鹿な真似をするんだい」
「なぜだかわからない。ただ面白いからやるのさ。おそらく吾々の仲間でなぜやるんだか知ってたものは誰もあるまい」
「気楽だね」
「実に気楽さ。知ってるのは僕らを煽動した教師ばかりだろう。何でも生意気だからやれって云うのさ」
「ひどい奴だな。そんな奴が教師にいるかい」

(夏目漱石『野分』)

 どうもこの部分は『坊っちゃん』の「煽動」と対になる。父親の依怙贔屓に気が付かない「おれ」の性格がここでなぞられており、終局の誤爆に繋がると考えてよいだろう。

二十三年四ヶ月

「さあ君はそう率直だから、まだ経験に乏しいと云うんですがね……」
「どうせ経験には乏しいはずです。履歴書にもかいときましたが二十三年四ヶ月ですから」
「さ、そこで思わぬ辺から乗ぜられる事があるんです」

(夏目漱石『坊っちゃん』)

「おれ」は物理学校を三年のストレートで卒業しているのに赴任時には二十三年四ヶ月になっている。この数字は『三四郎』でも繰り返される。「おれ」は私立の中学を二十歳で卒業している計算になる。このことはなんやかやとあって帝国大学に二十三歳で入学した漱石自身の体験と重ねられてのことだろうが、作為としてはもう少し深い意味があるのかもしれない。

気持良く晴れわたった十一月の午後、第三機動隊が九号館に突入した時にはヴィヴァルディの「調和の幻想」がフル・ボリュームで流れていたということだが、真偽のほどはわからない。六九年をめぐる心暖まる伝説のひとつだ。(『1973年のピンボール』/村上春樹/講談社/昭和五十八年/p6~7)『国境の南、太陽の西』でハジメ君は春樹さんより二歳年下に設定されます。つまり学生運動が内ゲバ殺人に発展した以降に大学生活に入ります。

 自身の記憶をたどりながら、年齢を少しずらして見せる。その何気ない細工が漱石サーガでは繰り返されてきた。
 たとえば「もしもこの年に文科をそこそこの成績で卒業した田舎者があったなら」と『彼岸過迄』を書いた漱石の作法は、時代性を帯びて書くという技巧として、全学連により東大入試が中止になって途方に暮れる薫くんを書いた庄司顏から村上春樹にパスされたとみてよいだろうか。実際に福田章二は十年前に東大を卒業している。

 この時間軸のずらしは、血統を横にずらすのと比較して縦のずらしと呼んでもいいと思う。

 夏目漱石が『坊っちゃん』を書いた頃、松山には6000人もの露西亜人捕虜がいて、比較的自由に街を歩き回り、温泉にも入っていた。

 ……と昨日書いた。この縦のずらしによるパラレル感覚は今よりも当時かなり強烈だったのではあるまいか。



[余談]

 それにしても小説を書きはじめた漱石は、普通の感覚で言えばもはや中年である。今よりも寿命の短い時代、もう四十と云うラインが見えていた漱石にとって、二十代の主人公の青春を描くことは、なかなか際どいことだったのではなかろうか。
 遺作『明暗』でも漱石は三十男の生々しい苦悩を描く。平均寿命の進捗から、村上春樹が大体その辺りの男、三十六七の男に拘るのは、二人だけに通じる、特別な約束事であったように思う。

 



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