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『彼岸過迄』を読む 4371 作中人物の設定⑩ 「おさん」

 この『彼岸過迄』という作品は兎に角複雑で解らない話だ。まだ解らないことがたくさんある。

 ここで果たして「作」は飯焚かという問題を考えていたが、もう一つ真剣に考えないといけないところに言及するのを忘れていた。それが「おさん」という存在である。

 これが解らない。作中「おさん」という言葉は一回しか現れない。「お」がしばしば女性の名前に使われ、「光子」が「お光」となるように、あるいは「光」が「お光」になるように、あるいは「稗田礼」が「稗田阿礼」になるように「ケンちゃん」が「けんちゃナー」になるように、これは「さん」という女に「お」がつけられたものではないか、とは一応考えられる。

 しかしそこから先がまるで分からないのだ。
 分からないのでつい意識から漏れて、今の今迄思い出せなかった。
 たった今思い出した。
 そういえばもう一人いたなと。
 それがどこかと探してみると、確かにいたのだ。

 敬太郎は須永の門前にしばらく立っていた。今這入った女の動静をそっと塀の外から窺うというよりも、むしろ須永とこの女がどんな文に二人の浪漫を織っているのだろうと想像するつもりであったが、やはり聞耳は立てていた。けれども内はいつもの通りしんとしていた。艶いた女の声どころか、咳嗽一つ聞えなかった。
「許嫁かな」
 敬太郎はまず第一にこう考えたが、彼の想像はそのくらいで落ちつくほど、訓練を受けていなかった。――仲働を連れて親類へ行ったから今日は留守である。飯焚は下女部屋に引き下がっている。須永と女とは今差向いで何か私語いている。――はたしてそうだとするといつものように格子戸をがらりと開けて頼むと大きな声を出すのも変なものである。あるいは須永仲働もいっしょに出たかも知れない。おさんはきっと昼寝をしている。女はそこへ這入ったのである。とすれば泥棒である。このまま引返してはすまない。――敬太郎は狐憑きのようにのそりと立っていた。 

(夏目漱石『彼岸過迄』
)

 いた。確かにいた。須永家には母、仲働、飯焚(=作?)ともう一人、「おさん」がいた。しかも「おさんはきっと昼寝をしている」とはどういうことだ? 昼寝できる身分なのか?

 いや、これは単純に「おさん」が「おさんどん」の「おさん」、つまり飯炊き女を意味し、下女部屋に下がった飯焚=「おさん」であり、下女部屋の飯焚はきっと昼寝をしているのだろうと初見では読んだに違いない。

 しかし後半で「作」のイメージが掴めて来ると、具合の悪い須永市蔵をほったらかして、しかもライバル(?)の田口千代子がやって来たのに、茶の一杯も汲まないで昼寝をするとはちょっと考えられないのだ。
 
 そこで須永家には、市蔵、母、仲働、作、飯焚(おさん)の五人がいたと考えてみる。やや多い感じはするものの、なんとか成立しそうなところ、これでは田川敬太郎が件の場面で作を全く意識に上らせていないことと矛盾する。

 では「飯焚」=「作」=「おさん」にしてみるとやはり「昼寝」が閊える。

 つまりこの「おさん」は誰かという問題は、「飯焚」=「作」=「おさん」と仮定した場合、何故作は田川敬太郎から「おさんはきっと昼寝をしている」と思われたのかという問題に還元し得る。

 こう整理してみるともう答えは明らかであろう。つまり、

・一年半前市蔵には「女らしい」「一筆がきの朝貌」「尊い感じ」と見えた作が、田川敬太郎にはただの「飯焚」「おさんどん」としか見えず、暇があると昼寝をしているような芋娘に見えた。

 あるいは、

・一年半前須永家にいた十九歳の作はどこかに嫁に行き、この日田川敬太郎が須永家を訪ねた時にいたのは別の「飯焚」「おさんどん」であり、暇があると昼寝をしているような芋娘だった。

 または、

・一年半前市蔵には「女らしい」「一筆がきの朝貌」「尊い感じ」と見えた作が、次第に変化し、田川敬太郎にはただの「飯焚」「おさんどん」としか見えないような芋おばさんになり、暇があると昼寝をしていた。

 そうでないとしたら、

・「おさん」というのは支那人留学生の「汪さん」のことであり、暇があると昼寝をしていた。

 ……ということになろう。うん。こう整理してみるともう答えは全然明らかではない。ここは単に須永市蔵と田川敬太郎では人物の見立てが違うというだけの話かもしれないし、作の人柄が変化したのかもしれないし、小間使いというのはそもそも定職ではなく、早々嫁にやるのが主人の務めなのかもしれない。夏目家の下女の尻を支那人が傘の先で突いたという話もあるので「汪さん」の可能性も捨てがたい。

 つまり、……この「おさん」問題はさっぱりわからないのだ。これが「おさん」ではなく「およん」ならばそうそう解決するのに「おさん」だから解決しない。

 猫?

 猫ねえ……。

 猫という感じはないな。犬でもない。

 ただまあ一応今日の所は「飯焚」=「作」=「おさん」としておいて、作の縁談はなかったことにしておこう。あったかもしれないが、そこまでは書かれていないので。これをあるとする根拠として「昼寝」だけを指摘するのはいささかやりすぎであろう。

[余談]

 また同じようなことを書いてしまう。兎に角目立ちたがりのお調子者で天邪鬼、人と違うことをしたいとかそういう性格の問題ではなく、先行研究を阿保みたいに積み上げるだけではだめだという話。
 具体的に言うと江藤淳の夏目漱石研究は「登世」に拘り過ぎて破綻しているようなところがあるし、大岡昇平の場合は江藤淳の若い勇み足を注意しながら自らは「美禰子は銀行員と結婚した」とずぼらなデマを流して失敗した。柄谷行人は小宮豊隆、江藤淳と継承された「一郎の三択」を明治の知識人の問題として固定化し、未だ江藤淳を超える漱石論はないとお馬鹿なことを言い出す始末。誰が主人公なのか解っていないのは江藤淳も吉本隆明も同じ。江藤淳の手柄を勝手に横取りしてしったかぶりをする蓮實重彦はシンプルに認知バイアスに陥っている。

 こんなものはいくら読んでも無駄だ。何の値打ちもない汚染データだ。そう判断できるのが知性だ。
 吉田精一の芥川解釈は間違っている。
 そう判断できないものが何を書いてもそれはゴミだ。


Kは五分刈りだって何度言ったら……


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