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『彼岸過迄』を読む 4360 作中人物の設定③「須永市蔵」

須永市蔵

 親戚からは「市(いっ)さん」と呼ばれている。生年月日不詳。年齢二十六七歳。江戸っ子。独身。法学士。喫煙者。一塩の小鰺が好き。

 高等遊民。叔父の高等遊民松本恒三を尊敬していて、影響を受けている。大学は卒業したものの信念の欠乏から来た引込み思案のために働く気がない。就職のことは一日も考えたことは無い。松本恒三の見立てでは須永市蔵は雑誌に写真が載るような良家の御令嬢を貰い受けられる御身分。(当時は財閥や家族の御令嬢の写真が雑誌に掲載されていた。)須永家には、須永市蔵が知らないかもしれない莫大な資産がある可能性がある。祖父はかなりの金持ちで浪費家でもあった。

 家族は養母一人。養母とは当然顔は似ていない。父親には似ている。「器量が落ちても構わない」から養母に似ていたいというくだりから、自分ではそこそこの器量だと思っていた節がある。血色のすぐれない親しみの薄い顔は父親似。櫛で髪を解かすくらいの髪の長さはある。従って坊主、五分刈りではない。

 実母は父親の小間使い「御弓」で、市蔵を出産後、死亡。「自分を生んでくれた親を懐しいと思う心はその後だいぶ発達した」とあることから、養母に対する強い思慕とともに生みの親御弓に対しても愛しみの情を持っていると思われる。

 父親は元軍人で主計官まで上り詰めたが、市蔵が幼い頃死んでいる。(死因不明。)この父親には市蔵より若い娘(妙ちゃん)がいたが父親のなくなる何年前かに実扶的里亜(ジフテリア)で死亡。この娘を市蔵は妹として認識しているが、彼女の方では市蔵を「市蔵ちゃん」と呼んでおり、兄とは認識していなかった可能性が高い。
 住まいは神田。家では小間使いの「作」と仲働き(氏名不詳)を使っている。作にはうっすら男として意識されている。仲働きとの関係性は不明。市蔵の部屋は家の二階。

 田川敬太郎からは「若旦那」に見えている。この「若旦那」というのは、

 ああは云っても、家に落ち着いて暮らしに不自由のない若旦那になってしまえば、自然野心も衰えるものだから、津村もいつとなく境遇に馴れ、平穏な町人生活に甘んずるようになったのであろう。私はそれから二年ほど立って、ある日彼からの手紙の端に祖母が亡くなったと云う知らせを読んだ時、いずれ近いうちに、あの「御料人様(ごりょうにんさん)」と云う言葉にふさわしい上方風な嫁でも迎えて、彼もいよいよ島の内の旦那衆しゅうになり切ることだろうと、想像していた次第であった。
 そんな事情で、その後津村は二三度上京したけれども、学校を出てからゆっくり話し合う機会を得たのは、今度が始めてなのである。そして私は、この久振りで遇う友の様子が、大体想像の通りであったのを感じた。男も女も学生生活を卒えて家庭の人になると、にわかに栄養が良くなったように色が白く、肉づきが豊かになり、体質に変化が起るものだが、津村の人柄にもどこか大阪のぼんちらしいおっとりした円みが出来、まだ抜け切れない書生言葉のうちにも上方訛りのアクセントが、―――前から多少そうであったが、前よりは一層顕著に―――交るのである。と、こう書いたらおおよそ読者も津村と云う人間の外貌を会得されるであろう。

(谷崎潤一郎『吉野葛』)

 この大阪の「ぼんち」とは少し違って「おっとり」を意味しない。むしろ
小柄で神経質。こせこせしている。無口。気が弱く、嫉妬心が強く、癇癪持ちで、体は弱い。引込思案。「生れてからまだ玉突という遊戯を試みた事がなかった」「彼らは第一に僕の弱々しい体格と僕の蒼白い顔色とを婿むことして肯わないつもりらしかった」とある。理屈っぽい。世間に対してははなはだ気の弱いうえに争うのが嫌い。

 とはいえ嫉妬深いので文鎮を持たせると危険。

 時々勝手に人の部屋に入って雑誌を物色する癖がある。二次元オタクで、おそらくは童貞。軍人ぎらい。やや皮肉っぽいところがある。親戚の子が死んでも悲しまない。

 鰻のたれの甘いのが苦手。

 松本恒三と養母くらいしか手紙をやる相手がいない。従妹の田口千代子(親類じゃあるし、年だって五つ六つ違ならおかしかなしさ、と言われているので作と同じ二十歳か二十一歳)とは幼馴染で親しげだが嫁に貰う気はない。ただライバルが現れると嫉妬する卑怯者である。
 田口家から正月の歌留多に呼んで貰えない。
 
 東京語が嫌い。

 田口千代子と混浴した可能性がないではない。

 絵は綿密で上手い。しかしもう七年くらい描いていない。始終詩を求めてもがいている。女の髪を上げるところを見ているのが好き。空威張を卑劣と同じく嫌う。軽薄才子になりたい。






[余談]

 夏目漱石と谷崎潤一郎と芥川龍之介を一日で読んでいると、太宰治と三島由紀夫が読みたくなる。というより、太宰治と三島由紀夫を読まないで夏目漱石と谷崎潤一郎と芥川龍之介について書くことが間違っているんじゃないかという気になる。川端康成だって坂口安吾だってまだやっていないのに、相当誤解されていることが解っているのに、今やっと、

 芥川龍之介の「保吉もの」は吉田精一によって「身辺雑記的私小説」と定義されてしまったため小説としての構造や意匠が見落とされている。

 ……みたいなことをやり始めていて、気ばかり焦る。芥川の代表作さえほとんど読み飛ばされていることが解ったからだ。


 例えばこの本に『あばばばば』のオランダのことが書かれているかどうか。
 もし書かれていなかったら、結局全部私がやらなきゃいけないことになってしまう。芥川龍之介の小説なんて短いんだからちゃんと読めよと云いたくなる。谷崎潤一郎の『吉野葛』だって「中世ものの傑作」にされてしまつているんだから困ったものだ。今やっと、

 谷崎潤一郎作品の多くに、天皇批判が現れること。いくつかの作品にさして意味の取れない事実のすり替えが見られること。そして谷崎の立場は基本的に「ドミナ捏造説」に依っていること。

  ……みたいなことをようやくやり始めていて、気ばかり焦る。

 と言っても、夏目漱石の『彼岸過迄』だってまだここだからなあ。

 乃木静子殉死の件も、まだ七人くらいしか理解していないしな。

 👆 この記事を読むのは普通の人には相当辛いのは解るんだけど、これさえ分からなければ、本が好きなんて言えないと思うんだけどな。



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