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谷崎潤一郎の『吉野葛』をどう読むか④ 私たち、すり替わっている?

 後南朝の浪漫を追いかける旅かと思ったら、静御前の嘘伝説に突き当たってしまった、というのが前回まで読んだところ。ついでに後南朝の浪漫自体が怪しく思えてきたところで谷崎潤一郎が仕掛けたのは、見事なすり替えだった。

 その人の好さそうな、小心らしいショボショボした眼を見ると、私たちは何も云うべきことはなかった。今更元文の年号がいつの時代であるかを説き、静御前の生涯について吾妻鑑や平家物語を引き合いに出すまでもあるまい。要するにここの主人は正直一途にそう信じているのである。主人の頭にあるものは、鶴ヶ岡の社頭において、頼朝の面前で舞を舞ったあの静とは限らない。それはこの家の遠い先祖が生きていた昔、―――なつかしい古代を象徴する、ある高貴の女性である。「静御前」と云う一人の上﨟の幻影の中に、「祖先」に対し、「主君」に対し、「古」に対する崇敬と思慕の情とを寄せているのである。そう云う上﨟が実際この家に宿を求め、世を住み佗びていたかどうかを問う用はない。せっかく主人が信じているなら信じるに任せておいたらよい。強しいて主人に同情をすれば、あるいはそれは静ではなく、南朝の姫宮方であったか、戦国頃の落人であったか、いずれにしてもこの家が富み栄えていた時分に、何か似寄の事実があって、それへ静の伝説が紛れ込んだものかも知れない。

(谷崎潤一郎『吉野葛』)

 さすがは谷崎だ。

 え? 何がすり替えか分からない?

 これはそもそも南朝の浪漫の話だったはずだ、ということを思い返してみよう。

それはこの家の遠い先祖が生きていた昔、―――なつかしい古代を象徴する、ある高貴の女性である。「静御前」と云う一人の上﨟の幻影の中に、「祖先」に対し、「主君」に対し、「古(いにしえ)」に対する崇敬と思慕の情とを寄せているのである。

 このロジックに表れる「高貴の女性」「静御前」「上臈」を「帝」「自天王」「南帝の後裔」に置き換えると、これはそのまま後南朝の浪漫となる。

それはこの家の遠い先祖が生きていた昔、―――なつかしい古代を象徴する、ある帝である。「自天王」と云う一人の南帝の後裔の幻影の中に、「祖先」に対し、「主君」に対し、「古(いにしえ)」に対する崇敬と思慕の情とを寄せているのである。


 そうみていくと、話が後南朝の浪漫から静御前の話にすり替わった理由が解るように思えてくる。

 いや、勝手にすり替えるな?

 勝手ではなく、ここは谷崎が後南朝の話として考えてみたらどうですかと合図をしている。

強しいて主人に同情をすれば、あるいはそれは静ではなく、南朝の姫宮方であったか

 こうあるではないか。何か話がすり替えられたのではないかとは谷崎が書いていることで、私の思い付きではない。

 一つの可能性として「自天王」の物語が「読み本にも、浄瑠璃にも、芝居にも」その痕跡が見られないのは、何かにすり替えられて伝わっているからなのではなかろうか。

 それから「ずくし」と呼ばれる美濃柿を御馳走になる。禁闕の変は別名嘉吉の変(かきつのへん)とも呼ばれる。

 この「柿」と「嘉吉」は、

 かかっていないだろう。さすがに。

 吉野葛は食べないで「ずくし」を食べるという洒落だ。



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