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谷崎潤一郎の『吉野葛』をどう読むか③  どこが中世ものだよ


読み本にも、浄瑠璃にも、芝居にも」その痕跡が見られないことの指摘は、鋭い。

 前回そんなことを書いたもので冷や冷やし、小一時間国立国会図書館デジタルライブラリーの中をあちこち検索した。自天王の浄瑠璃や歌舞伎を捜したがやはりそれらしいものはみつからなかった。さらに言えば一日考えてみても何故「読み本にも、浄瑠璃にも、芝居にも」その痕跡が見られないのか、その仮説すら立てられないことが解った。確かに熊沢天皇のようないささかかけ離れた伝説はあるものの、物語に仕立て上げられなかったことが単に不思議なのだ。

 尾ひれが付けられない理由が解らない。ただ解らない。敢えて言えば「明治天皇すり替え説」や「孝明天皇暗殺説」などさまざまな「陰謀論」が後南朝の物語を吸収してしまったのではなく、南北朝正閏論そのものが自天王の浄瑠璃や歌舞伎を作らせなかったようなところはあるかもしれない。

 今九十九代天皇は後亀山天皇で百代天皇が後小松天皇ということになっているが、そのあたりのきめはそもそもずっと曖昧だったのだ。光厳天皇を九十六代に数える資料もあったわけで、今の感覚で言うところの「幻の南朝」というものが、明治以前に確固としてあったわけではない。つまり自天王に我々が感じる浪漫や悲劇性などというものは、明治政府が教科書で「南北朝時代」を「吉野朝時代」と呼んだ以降に現れるものなのではなかろうか。

 あるいは明治時代の学習院初等科の教科書を見ると、兎に角楠木正成を英雄視することが甚だしい。楠木正成こそが悲劇のヒーローなので、自天王を持ち出すことが邪魔になったのではなかろうか。

 とまあいい加減なことを書いて、少し進もう。何故なら谷崎は例によってあっさりと裏切るからだ。

 津村は例の国栖の親戚を訪う用がある、それで、三の公までは行けまいけれども、まあ国栖の近所をひと通り歩いて、大体の地勢や風俗を見ておいたら、きっと参考になることがあろう。何も南朝の歴史に限ったことはない、土地が土地だから、それからそれと変った材料が得られるし、二つや三つの小説の種は大丈夫見つかる。とにかく無駄にはならないから、そこは大いに職業意識を働かせたらどうだ。ちょうど今は季候もよし、旅行には持って来いだ。花の吉野と云うけれども、秋もなかなか悪くはないぜ。―――と云うのであった。
 で、大そう前置きが長くなったが、こんな事情で急に私は出かける気になった。もっとも津村の云うような「職業意識」も手伝っていたが、正直のところ、まあ漫然たる行楽の方が主であったのである。

(谷崎潤一郎『吉野葛』)

 本格的な葛粉と三温糖を使った美味い葛餅の話かと読み始めた人も、また「文壇にも谷崎潤一郎『吉野葛』など中世ものの傑作が生まれた。保田與重郎『後鳥羽院』などもあり、南朝を吉野朝と呼ぶ南朝正統論と相まって」……という見立ての中で『吉野葛』を捉えようとする人も、この「行楽の方が主」でひっくりこける仕掛けだ。

 さすがは谷崎潤一郎、やってくれるものだ。こうなると後南朝の浪漫も南朝正統論も何もあったものではない。言ってみれば漱石の『草枕』で婆さんから古雅な歌を聴かされるような流れになりつつある。

「あれ、あれをご覧なさい、あすこに見えるのが妹背山です。左の方のが妹山、右の方のが背山、―――」
と、その時案内の車夫は、橋の欄干から川上の方を指さして、旅客のつえをとどめさせる。かつて私の母も橋の中央に俥を止めて、頑是ない私を膝の上に抱きながら、
「お前、妹背山の芝居をおぼえているだろう? あれがほんとうの妹背山なんだとさ」
と、耳元へ口をつけて云った。

(谷崎潤一郎『吉野葛』)

 まさに行楽である。と思わせて、谷崎潤一郎は「妹背山の芝居」として『妹背山婦女庭訓』を仄めかす。

 これは南北朝の話ではなく、日本支配をねらう悪役・蘇我入鹿が打ち倒される芝居だ。いわゆる「大化の改新」に尾ひれをつけている。こうなるとなんだか夏目漱石の『三四郎』に現れる「入鹿の大臣」の芝居の話のように剣呑になる。
 それをまた谷崎は、尾ひれの部分を使って、

 歌舞伎の舞台では大判事清澄の息子久我之助と、その許嫁の雛鳥とか云った乙女とが、一方は背山に、一方は妹山に、谷に臨んだ高楼を構えて住んでいる。あの場面は妹背山の劇の中でも童話的の色彩のゆたかなところだから、少年の心に強く沁み込こんでいたのであろう、そのおり母の言葉を聞くと、「ああ、あれがその妹背山か」と思い、今でもあのほとりへ行けば久我之助やあの乙女に遇えるような、子供らしい空想に耽ったものだが、以来、私はこの橋の上の景色を忘れずにいて、ふとした時になつかしく想い出すのである。

(谷崎潤一郎『吉野葛』)

 と、軽くいなして蘇我入鹿の「そ」の字も出さない。次に出て來る芝居は『義経千本桜』である。

 これこそは死んだはずの平家の勇将、平知盛、維盛、教経が実は生きていた、という後南朝の浪漫を源平合戦の世界に展開したような悲劇ではないか。次に謡曲「二人静」の話になる。

 なお附近には象の小川、うたたねの橋、柴橋等の名所もあって、遊覧かたがた初音の鼓を見せてもらいに行く者もあるが、家重代の宝だと云うので、然るべき紹介者から前日に頼みでもしなければ、無闇な者には見せてくれない。それで津村は、実はそのつもりで国栖の親戚から話しておいて貰ったから、多分今日あたりは待っているはずだと云うのである。
「じゃあ、あの、親狐の皮で張ってあるんで、静御前がその鼓をぽんと鳴らすと、忠信狐が姿を現わすと云う、あれなんだね」
「うん、そう、芝居ではそうなっている」
「そんなものを持っている家があるのかい」
「あると云うことだ」

(谷崎潤一郎『吉野葛』)

 もう後南朝は完全にどこかに行ってしまっている。津村と話者はその初音の鼓を見に行くことになる。そこで「菜摘邨来由」と題する巻物をみせられるのだが、これがいかにも信用できない。

・写しの方は誤字誤文が夥しく、振り仮名等にも覚束かない所が多々あって、到底正式の教養ある者の筆に成ったとは信ぜられない。

・義経の二首の和歌が載っている。が、そこに記してある和歌は、いかな素人眼にも王朝末葉の調子とは思えず、言葉づかいも余りはしたない。

・静御前がこの地で亡くなり、その後夜な夜な火の玉になって現れたとされている。

 私たちがこの巻物を読む間、主人は一言の説明を加えるでもなく、黙って畏こまっているだけであった。が、心中何の疑いもなく、父祖伝来のこの記事の内容を頭から盲信しているらしい顔つきである。「その、上人がお歌を書かれた振袖はどうされましたか」と尋ねると、先祖の時代に、静の菩提を弔うために村の西生寺と云う寺へ寄附したが、今は誰の手に渡ったか、寺にもなくなってしまったとのこと。太刀、脇差、靱等を手に取って見るのに、相当年代の立ったものらしく、殊に靱はぼろぼろにいたんでいるけれども、私たちに鑑定の出来る性質のものではない。問題の初音の鼓は、皮はなくて、ただ胴ばかりが桐の箱に収まっていた。これもよくは分らないが、漆が比較的新しいようで、蒔絵の模様などもなく、見たところ何の奇もない黒無地の胴である。もっとも木地は古いようだから、あるいはいつの代かに塗り替えたものかも知れない。「さあそんなことかも存じませぬ」と、主人は一向無関心な返答をする。
 外に、屋根と扉の附いた厳しい形の位牌が二基ある。一つの扉には葵の紋もんがあって、中に「贈正一位大相国公尊儀」と刻し、もう一つの方は梅鉢の紋で、中央に「帰真 松誉貞玉信女霊位」と彫り、その右に「元文二年巳年」、左に「壬十一月十日」とある。しかし主人はこの位牌についても、何も知るところはないらしい。ただ昔から、大谷家の主君に当る人のものだと云われ、毎年正月元日にはこの二つの位牌を礼拝するのが例になっている。そして元文の年号のある方を、あるいは静御前のではないかと思います。と、真顔で云うのである。

(谷崎潤一郎『吉野葛』)

 正一位大相国公とは徳川三代将軍、徳川綱吉(1680~1709年)、元文二年は1737年、時の将軍は八代、徳川吉宗(1716~1745年)である。静御前は生没年不明ながら平安末期から鎌倉初期にかけての白拍子(男装の舞妓)とされている。

 これではまるで、初音の鼓も「二人静」も『義経千本桜』も『妹背山婦女庭訓』も、あるいは自天王にまつわる伝説も、後南朝の浪漫も、みな父祖伝来の言い伝えを盲信している雛人の幻想であるかのような印象操作になっていないか、潤一郎!

 狙いは何なんだ、潤一郎!

 それからこれのどこが「中世ものの傑作」なんだウイキペディアの編集人! 




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