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谷崎潤一郎の『吉野葛』をどう読むか②後南朝は読み本にも、浄瑠璃にも、芝居にもならない

 三島由紀夫がどこから南朝への忠義を持って来たのかは定かではない。三島由紀夫の国学は本物で、俄かに辿れるようなものではない。はっきりしていることは谷崎が書いたように、

 普通小中学校の歴史の教科書では、南朝の元中九年、北朝の明徳三年、将軍義満の代に両統合体の和議が成立し、いわゆる吉野朝なるものはこの時を限りとして、後醍醐天皇の延元元年以来五十余年で廃絶したとなっているけれども、(谷崎潤一郎『吉野葛』)

 ……などという前提がそもそも怪しいということだ。少なくとも昭和天皇と三島由紀夫が学習院の初等科で学んだ歴史教科書は、楠木正成を忠臣として褒めたたえ、足利尊氏を逆賊として貶めるものであった。何故か吉野を美化し、後醍醐天皇を逆賊と戦わせる。

 そこにどのような思い入れがあるのか全くの謎だが、何故か明治政府は後醍醐天皇に対するシンパシーを隠そうともせず、南朝正統説を支持する。そこから「明治天皇すり替え説」や「孝明天皇暗殺説」などさまざまな「陰謀論」がうまれてきたことを知らないわけではない。

 ただ谷崎が『吉野葛』で突きたかったのはそこではなかろう。谷崎がフォーカスしたのはまさに後南朝という、三島由紀夫の言うところの「幻の南朝」なのだ。だからこそ三島由紀夫がそれを見て見ぬふりをしていることは余りにも不自然なのだ。

 私はこれだけの材料が、なにゆえ今日まで稗史小説家の注意を惹かなかったかを不思議に思った。もっとも馬琴の作に「侠客伝」という未完物があるそうで、読んだことはないが、それは楠氏の一女姑摩姫と云う架空の女性を中心にしたものだと云うから、自天王の事蹟とは関係がないらしい。外に、吉野王を扱った作品が一つか二つ徳川時代にあるそうだけれども、それとてどこまで史実に準拠したものか明かでない。要するに普通世間に行き亘っている範囲では、読み本にも、浄瑠璃にも、芝居にも、ついぞ眼に触れたものはないのである。そんなことから、私は誰も手を染めないうちに、自分が是非共その材料をこなしてみたいと思っていた。 (谷崎潤一郎『吉野葛』)

 谷崎はわざとらしくもこう昭和六年に書いている。「君は神」「万世一系」が絶対の真理として解かれていた時代においては、時の政権により擁立される天皇という歴史観そのものがタブーであったことは否めまい。だが「読み本にも、浄瑠璃にも、芝居にも」その痕跡が見られないことの指摘は、鋭い。(当然谷崎は「神霊矢口渡」以降の後南朝の浄瑠璃や歌舞伎がないことを指摘している。)ここに谷崎の近代文学2.0がある。

 私は谷崎が「億兆の國民」と書いたことにフォーカスし、夏目漱石が『こころ』において乃木静子の死に疑問を呈したことに注目してきた。それはむしろこれまで「どういうわけかそのことが誰にも指摘されないという不思議」の発見でもあった。谷崎は『吉野葛』において後南朝を語るタブーではなく、どういうわけか後南朝が「読み本にも、浄瑠璃にも、芝居にも」ならない不思議に突き当たった。

 このどういうわけか、が凄い。

 例えば「億兆の國民」がおかしいという気付きは、そのネタ元の『栄花物語』を語彙検索にかけるという地味な作業によって生まれた。その前には割とシンプルな違和感がある。やっていることは仮説検証のプロセスだ。そういう細かい作業を誰もやらなかったから「億兆の國民」がおかしいと誰も言わなかっただけだ。

 夏目漱石が『こころ』において乃木静子の死に疑問を呈したことは漱石の日記、そして乃木希典の遺書を読めば分かる。これも仮説検証のプロセスだ。夏目漱石が『こころ』において乃木静子の死に疑問を呈したことに誰も気が付かないのは漱石の日記と乃木希典の遺書を両方読んだ人間がいないからではなく、漱石が講演で「乃木大将の殉死は立派だ(模倣はいけない)」などとも言っており、そもそも乃木静子の死に疑問を呈したとして、殉死以外に静子の死の理由が思い当たらないからだ。ここには確かに多くの人を思考停止にさせる「解らなさ」がある。

 後南朝が「読み本にも、浄瑠璃にも、芝居にも」ならない不思議にも、ちょっと仮説が立てられそうにもない感じがする。ここにもかなりの「解らなさ」がある。人の口に戸は立てられない。だからこそ「明治天皇すり替え説」や「孝明天皇暗殺説」などさまざまな「陰謀論」がある。しかしむしろ「明治天皇すり替え説」や「孝明天皇暗殺説」に吸収されてしまったかのように後南朝は「読み本にも、浄瑠璃にも、芝居にも」ならない。

 しかし谷崎潤一郎論2.0の関心事は、それでもなお『吉野葛』の社会批判が全く問題にもされないことだ。

 谷崎潤一郎はまだ誰にも読まれていない。

 まだ誰にも読まれていない谷崎潤一郎が青空文庫にある。

 なんでや?


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