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本当の文学の話をしようじゃないか④ 日々人は死んでいくんだよ

 芥川の『蜘蛛の糸』が好き、そういうこの人の気持ちには嘘はなかろう。それはそれでよいことだ。好きにしたらいいと思う。

 これは文学とは関係ない話だ。関係ないばかりか、誤解を招きかねない。こういう話はいったんやめるべきではないか。

 しかし淀見軒がアール・デコ調の建物であることは『三四郎』の解釈において重要な役割を持っている。

 これを与次郎が「ヌーボ式」ということによって一つの筋が出来ている。しかし屁の勘定は文学ではない。

 問題は岩波書店の社員でさえ夏目漱石作品が読めていないということだ。読めていない本を売ろうとしている。これはどうしたものだろう。

 岩波書店の狙いは解らない。

 しかし史実として、これは勿論岩波書店だけの問題ではないが、北村透谷作品の改竄に気が付かず何十年と販売し続けてきたわけである。

 そしてその後始末は単に新しい版の透谷全集を売るというだけに留まってはいまいか。たとえば芥川が「火桶」と「火鉢」を間違えていたのをしれっと直す、

 この程度のことは「しれっと」で構わない。しかし、

 こうした問題に関しては相互に連絡を取り合い、混乱を避けるべきではなかろうか。本来一番文学に身近であるべき存在が、文学を涜している状況というものが確かにある。

 青空文庫も信用できない。

 今文学は少しずつの杜撰さの寄せ集めのようなものになってしまっている。

 その杜撰さは誰かの卑怯にも似ている。松本人志の問題に言及する作家が見当たらないことにも似ている。

 金閣寺は乳房にもなる。そのことは決して無視してはならない。伊藤純也の問題に言及する作家が見当たらないことの恥ずかしさは忘れてはならない。

 未詳と書く時程、強い責任感を持たなくてはいけない。

 少なくとも読者にできることは限られていて、話者に支配され、文字を読み、文字の意味を調べ、その文字の作品の中での使われ方について考える……本来はその程度ことであり、作品を振り回すことなど許されるわけはないのだ。

 文学にとって一番大切なものは謙虚さなのではなかろうか。しかし現にそうではないものがまかり通ってしまっている。権威主義が幅を利かせている。

 そして問題は日々人が死んでいくというところにもある。毎日誰かが死んでいく。蓮實重彦が、柄谷行人が徹底して読み誤ったままこの世を去るのではないかという予感に私はいらいらしている。

 丸谷才一はでたらめを書き残して死んでしまった。

 柄谷行人はまだ生きているのか、

 蓮實重彦はどうかと日々ハラハラしている。このままでは奥泉光でさえも頓珍漢な批評を残して死ぬしかないのだ。
 今、あなた自身が文字を読み、文字の意味を調べ、その文字の作品の中での使われ方について考えるかどうかというところに文学の命運がかかっている。

 これですべてが救われる。


お友達にも教えてあげて。……いないか、お友達。

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