最近の記事

記憶からは何も聞こえない

いつも思い出すイメージがある。 今まで気にしたことがなかったけど自分の記憶には音がないことに気づいた。音に関係する記憶はいくつかあるがそれ自体も音そのものの記憶ではなくそれにまつわる視覚的なイメージしかない。 何故なんだろう、自分は普段の生活でも視覚的に得たものしか記憶が出来なくて(例えば道のりや人を覚える時)音で得た情報は殆ど記憶できない。 だから声を動画や録音しておくことはその人(の声)を忘れない為にも大事だなと思う。声を思い出せないことは随分寂しいことだから。

    • 肌理

      2泊3日で新潟に行く。パートナーの祖母に会う為に病院へ行く。殆どコミュニケーションをとれない相手に声をかけつづける彼女の後ろ姿をただ見る。帰り道静かに泣く彼女の背中を撫でることしか出来ない、かける言葉も見当たらない。つまり俺には何も出来ない。 旅先でsnsで友人の母親が亡くなったことを知る、彼がお見舞いの帰りにたまたま近くでやっていた俺の展示によってくれたことがあった。その時もかける言葉がなくて、いくつかの話をして「展示に来てくれてありがとう」とだけ伝えて別れた。 数枚の

      • ただ会いに行く

        ただ会いに行くことしか出来ないとわかっていながらそれでもただ会いに行くことは簡単ではない。それをしないと後で後悔するかもしれない、なんてきっと考えていない。俺と違って打算的じゃない、物事に対して感情的で素直なところを好きになったんだなと思う。

        • 不幸の味見

          snsでsnsを批判する投稿を見た。皮肉なのかギャグなのか真剣なのかわからないが、sns上で議論するならとにかく現実世界で(反戦の)デモヘ行け的な内容だった。わからなくてもわからないなりにアクションしろ、声を上げろと色々な人達が言う。最近では芸術も同じような社会的なテーマを扱う作品が多い。本当なのか? 考えること、想像することはもちろん大事だと思うけどその題材、モチーフ、テーマ、出来事を利用してないか?という気持ちになることもある。一時的にお祭り的に消費していないか?やらない

        記憶からは何も聞こえない

          誠実でいること

          それは誰にとって?誰の為に?

          誠実でいること

          不在と在ったもの、元々なかったものについて

          映画を見た。シングルマザーと息子(とその周りの人々)の話、彼の映画は自分にとって特別なものがいくつかある。元々あったものがなくなった時と元々なくて今もないものだったらどっちが幸せなんだろうと思う。 元はあったものなら思い出したり懐かしんだりする事が出来るけどそういうものがあるからこそ苦しんだり悩んだりもするはず。元々なければそのことに悩まされることはないけど思い出すことさえ出来ない。これって写真に撮るとか撮らないとか、みたいなこととも共通してるのか?してないのか?よくわから

          不在と在ったもの、元々なかったものについて

          アーカイブ出来ない身体

          展示をすると思い出すことは殆どが制作中のことだ。作り終わった作品、つまり展示そのもののことはあまり覚えていない、すぐ忘れてしまう。 自分の展示は年々、場所と空間について考えることが増えている気がする。そこの場所に向かうこと、鑑賞者がそこに立つことでその人の身体と場所と作品の結びつきがインスタレーションとしての展示の一回性を成立させると思う。その意味では誰かの経験は他の誰かでは再現が不可能だし写真や映像ではアーカイブすることは出来ない。 俺が展示に求めていることはそういうア

          アーカイブ出来ない身体

          腕の中のたくさんの花束

          今年の桜は気がついたら散っていた。展示があったり、久しぶりに海外での仕事があったりなんかで慌ただしくしていた。 俺が家にいないと猫は不満そうだし、俺も猫とゆっくり出来ないのは嫌だ。 春は嫌な記憶が多いからあまり考えすぎないようにしている。まだまだ俺は俺自身に囚われている、執着のように写真はまだぎりぎり続いている。写真を撮ることも編むことも楽しさなんて、とうになくなってそれでもなぜやめないのか俺自身全くわからない。 でもまだ続いている、春にかけられた呪いが解けない。

          腕の中のたくさんの花束

          身体は憶えているとは、言わない

          「身体は覚えている。」そんな言い回しや台詞を映画や小説、散文などで目にしたことは何度もある。<身体的>という言葉はここ数年、何だか流行りのように使われていることを耳にしたし、この言葉は写真家が写真を語る上でも耳馴染みがある言葉だと思う。 写真を撮ることは身体的だ、というのはある意味擦られきった言葉の表現のようだけど、それ自体は真実であるから異論はない。 人は歳をとって出来ないことが増えていく、その時に何に執着をするのだろ?90歳を超えて一人で歩くことが出来なくなった恋人の

          身体は憶えているとは、言わない

          車っぽい

          パンザマスト展が終了した。 パンザマストのシリーズを扱う4度目の展示で地元を扱う写真と共に場所に応じて行ったり来たりしている気がする。 展示の会期中、友人がステートメントを読み「東海林くんにとって、このシェルターって車っぽいよね。」と言ってくれた。その意味をずっと考えていて少しだけ言葉に残そうと思う。 身体は車そのもの、つまり車体でそれを駆動するためには装備が必要で(タイヤとかその他にも)それは行きたい場所やその時の状況に大きく影響される。これは制作や展示に似てて、扱うテ

          車っぽい

          シェルターのようなもの

          秘密基地と呼んでいた気がする。 幼い頃、布団をかぶって身体の回り数センチの空間を自分のテリトリーにするのが好きだった。 自分の部屋がどうしても欲しくて、押し入れに籠ることから始まり2畳の物置部屋が中学生くらいまでの自分の部屋だった。10代の頃、初めて自分で借りた部屋は4畳しかないとても狭い部屋だったけど、それでもこれが自分の部屋なんだと思えた。 いつも場所を求めている気がする。 小さい頃、空き地に穴を掘ってそこを友人達と秘密基地と呼んでいた。ある日強い雨が降って呆気なくそ

          シェルターのようなもの

          とをがについて

          4月に展示をすることになった場所について https://towoga.org/ とをがについて主宰の熊井さんはHPにこう記している とをが。ここは、ギャラリーでありアトリエであり、事務室、編集室、図書室、応接室、休憩室のような場所です。その有り様を、それをそれとたらしめているものは、そこに居る人と訪れる人であるように思います。まだ、ないもの。もう、ないもの。そのようなものが、見出されたり宿されたりするような営みを、ここで起こし続けていきたいと考えています。熊井晃史 ま

          とをがについて

          似ていて違う。

          撮る事と話すことは少し似ている、その時の一瞬で大体のことが決まってしまう。 書くことは時間がかかる、展示を編むことには少し似ているかもしれない。 全てのことにはいい部分と悪いというより不自由な部分がある。だから面白いと思う。

          似ていて違う。

          冬の夕立(雷雨)

          展示を終えて数日が経ち、何か考えが纏まるかと思ったがそんなことはなくダラダラと日常を過ごしている。考えることは夕食の献立や猫についてぐらいで全くもってボンクラだと思う。(ただの現実逃避だけど、、、) こうゆう時、誰かと何かを話したいと思う気持ちはあるけど誰かと何を話せばいいのかわからなくなりいつも、とても消耗してしまう。 雨が降った時と風呂に入った後の気持ちはよく似ているなと思う。 何かが洗い流されていくようで少しだけ気持ちが楽になるけど、肝心な何かは残っている。

          冬の夕立(雷雨)

          生活と制作

          絵を描くことも文章を書くことも写真を撮ることも(それについて考えることも)本を読むことも料理をすることも全て生活と制作は繋がっているといいなと思う。そういうものを衒いなく素直に見せれたらいいなと少し前からそう思っている。

          生活と制作

          展示について

          2023年12月の2日から31日まで @229.4242 で展示をします。映像と写真のインスタレーションです。2019年の展示<happen>から地続きの制作で全て新作です。 <Nothing happened>というタイトルで2018年頃から記憶の断片のような映像を記録として動画で撮り続けたものを自宅のあらゆる場所に投影をして繰り返し撮影をしました。 時間と場所を何層にもレイヤーさせていくことにより元の映像がもつ場所性や時間軸がほどかれていき、記録だった映像は曖昧な記憶にな

          展示について