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「中東のパリ」から泥沼の紛争地域に、レバノン近代史|気になる中東

ベイルート大爆発事件の影響はまだ続いているが、元のシリーズの内容に戻したいと思う。

レバノンはもともと地中海の海洋交易で栄えたフェニキア人の文明が栄えた地。歴史的にはシリアの一部とされ、創始者ムハンマド(マホメット)によるイスラム王朝が東ローマ帝国を破った後、シリア地方も征服されアラブ化が進んだ。しかしながらレバノン周辺地域にはキリスト教徒も多く、その後のオスマン帝国支配下でも自治を認められたため、独自の地域文化が育まれた

第1次世界大戦後は、サイクス・ピコ協定によりフランスの委任統治下に入る。この頃の宗派別人口として、最大宗派であるキリスト教マロン派を中心としたローマカトリックや正教会などのキリスト教勢力と、スンニ派やシーア派などのイスラム教勢力とが拮抗しており、各宗派を代表する議員による評議会が構成され、これがレバノン独立後の議会の原形となった。このような経緯から、レバノンは「宗教のモザイク国家」と呼ばれるようになった。

レバノン共和国成立(1926年)当時の宗派別人口構成をもとに、現在でも大統領はマロン派、首相はスンニ派、国会議長はシーア派から選出されることとなっており、また国会議員定数も宗派ごとに決められている。ただその後に人口構成は大きく変わっているはずで、それが政治の意志決定にリンクされない構造であることが、後に内戦につながる軋轢を生み、また権力の固定化によって腐敗を産みやすい政治体質になっているとも言える。

レバノン国旗

第2次大戦中の1943年に、ドイツ軍のフランス占領により委任統治体制が終了し、レバノンは独立を果たす。その後は金融や観光産業による発展を遂げ、首都ベイルートは「中東のパリ」と呼ばれ、実際にパリの最新モードが翌日にはベイルートに飾られる華やかなリゾート地となった。現在につながるレバノンの多彩な文化や芸術は、この時期に形作られたと言える。

しかし1970年、ヨルダン内戦により行き場を失ったPLO(パレスチナ解放機構)が本拠地をベイルートに移したことから、宗派間のバランスが崩れ、マロン派とイスラム教各派の間の摩擦が激化。75年にレバノンは内戦へと突入する。

さらにPLOがベイルートからイスラエルへのテロ攻撃を繰り返したことにより、82年にイスラエルがベイルートに軍事侵攻。かつての「中東のパリ」は血で血を洗う修羅場と化した。これは誇張ではなく、この頃私は高校生~大学生だったが、TVニュースなどで頻繁に報道されるベイルートの様子は本当にひどいものだった。

イスラエル侵攻によりPLOは本拠地をベイルートからチュニス(チュニジア)に移した。これを受けイスラエルはレバノンから撤収。90年にシリアが「レバノン安定化のため」との名目で侵攻したが、このシリア駐留によりレバノンは結果的に安定を取り戻す。シリアの駐留は2005年まで続いた。

海外からの観光客も戻り経済も盛り返し、一部内戦の傷跡は残しながらも、かつての「中東のパリ」の華やかさを取り戻しつつあった。今回の大爆発事件までは。

「文明の十字路」として中東と西欧を結ぶ接点であるレバノンには、この試練を乗り越え、平和と持続的発展を取り戻してもらいたい。

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