タイに行ってから、自分の中から正解がなくなって毎日が少し楽しくなった話。
前提:僕が持つ小学生レベルの思考のログです。
明日には違うことを考えているかもしれません。
自分の中で「正解」だったものが「不正解」に
2018年10月、突然のタイ駐在命令。しかもWebマーケ担当新卒の自分一人。
まだタイに来て3ヶ月程度ではあるものの、自分の中で「正解」だったものが「不正解」になっていく感覚が頻繁に起こっています。
例えば「メディアの定義」。自分が所属する部署では「我々のメディアはSEOで上位検索されることが重要」と教えられ、それが正義だと思いこんでいました。
そのため「文字数は3,000文字~」「タイトル、H2、記事構成はこんな感じ」といったことを考えるのはメディアを運営する上で当たり前だなと思い込んでいましたと。
しかし、タイに来ると「文字読まないよ」というSEOの前提を覆す状況に陥ってどうしようみたいな話に。
つまり、うちの部署内での「正解」だったものが「不正解」に変わる瞬間です。
ここは一度原点回帰してタイの人目線から逆算し施策を打っていく。
それがいまの正解になるのですが、時々上司と意見がぶつかります。
そういうときは、本質をずらさず無視していいものか、受け入れるべきかを判断するようにしています。
「意外と深い理由はないのでは」と考えたら楽
他には「働く」に関して。
「タイの人はそこまで熱心に働かないよ」とよく聞きます。
『輪廻転生』、人生は1回で終わるのではなく、また繰り返し新たな人生が始まるからという価値観が根付いているらしいです。
(まあ僕の周りのタイスタッフめちゃくちゃ働いているので一概には言えませんが。)
それを聞くと「確かに、働くってなんだろうな。」って就活生のときに考えるべきことをたまに考えます。
「仕事を熱心にすることがそこまで素晴らしいことなんだろうか」
「Twitterで仕事嫌だと言っている人がなんでその仕事しないといけないのか」「なぜ上司が正しいという風潮なのか」「なぜ残業が評価されるのか」「なぜ会社に所属することが正しいとされるのか」
「意外と深い理由はないのでは」っていうのが最近の考えです。
おそらく親や親しい友人から植え付けられた価値観が大きく左右していそうな気がします。
幸い、自分の親は僕が小学低学年の頃にいい意味で「諦めた」ので、これといって理由を説明できない価値観を押し付けられることはなかったです。
(高校3年生まで大学に行く気がない自分に大学だけは行ってくれと言われたくらい。)
だから、あまり固定概念(=常識)がない状態で育ってしまったので、たまに苦労します。
でもそうして苦労する人生を選んででも、しがらみのない、常識のない、正解のない状況の方がシアワセかなーと思ったりもします。
とにもかくにも、タイに来て、これまで無駄なことを考えすぎていたなと実感しています。
やはり、生きていく上で正解なんて探さず、
みんながアーティストのように生きる世の中になればいいなと「今」は思います。
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