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イールズ-ブライアン・ウィルソンの再来と呼ばれた男-

現代ポップス最高のメロディメーカーとして知られるビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソン。そんな彼に匹敵する才能と言われた2000年代のアーティストがいる。イールズことマーク・オリヴァー・エヴァレットがその人だ。

マークは、当初"E"というアルファベットの大文字一字のミュージシャン名で92年にソロデビューする。"A Man Called E"、ブロークン・トイ・ショップ、ビューティフル・フリークという三枚のアルバムを発表する。

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この頃の曲は、R.E.M辺りを想像させる、当時既に古臭い機材を使った80年代後期風の音像だが、そのもやの向こうには卓越したメロディセンスの片鱗が伺える。筆者も一聴した時にはこの音像の印象からイマイチだなと思い、寝かしの棚に入れて、時折退屈した時にランダムで再生していた。

ところが、聴く回数を重ねるたび、イールズ(うなぎ)の沼に一歩また一歩とグイグイ引き込まれていった。

私がEELSを知ったのは、Electro Shock Bluesが出たころ。レコード店で働いていた先輩が持っているのをチラ見して、タワレコで試聴した。「なにこれめちゃくちゃカッコいいじゃん」。"Cancer For The Cure""Going To Your Funeral"… 曲名を挙げたら全曲を挙げる。アルバム全曲が素晴らしい。

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Eとして発表した初期の三枚がポリドールから発売されているのに対し、96年に発表されたビューティフル・フリークからエレクトロ・ショック・ブルースを含むシューテナニーまでの5枚はドリームワークスという聞きなれないレーベルから発表されている。

このドリームワークスは、スティーヴン・スピルバーグ、ジェフリー・カッツェンバーグ(ディズニー)、デヴィッド・ゲフィン(ゲフィン・レコード)らエンタメ業界の大物らが集って94年に共同設立した一種のベンチャープロジェクト。アメリカン・ビューティやマッチポイント、トランスフォーマーなどを制作して、ディズニーなどと競った。

イールズをバックアップしたのは、デヴィッド・ゲフィンと推察される。ゲフィンは、当時ベックのメジャーデビューアルバムを発売する権利を破格の条件で獲得し、スターダムに押し上げた立役者だ。

ゲフィンは、ベックをデビューさせるときにプロデューサーとして起用したダスト・ブラザーズをイールズのアルバムでも改めて起用した。

ダスト・ブラザーズは、デリシャス・ビニール(Delicious Vinyl)というレーベルでマジモン(アフリカンアメリカン)のヒップホップを発表していた根っからのビートメーカー。

ゲフィンは、マークのメロディとダストブラザーズのビートを融合させて化学反応を起こそうと企んだ。その実験はベックで半ば試されていたものでもあった。

この試みが結実したのが、ビューティフル・フリークからシューテナニーまでの5枚。この5枚はすべて神盤と呼べる奇跡的な曲群になった。ある意味、曲としての完成度はベックを遥かに凌駕した。

この頃、マークについて珍事が起きる。時の大統領ジョージ・W・ブッシュから、「アルバムが不謹慎だ」と名指しで非難されたのだ。Daisies of the Galaxyのジャケット画が幼児向けのようなのに、歌詞が過激すぎるとされた。素晴らしすぎる内容が響き渡って、世界最高の権力者も見過ごせなかったのだろう。

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そして、ロイヤル・アルバート・ホールでのライブを収録した2枚組アルバムの発表で、活動は頂点に達する。

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さて、この黄金期を経て、マークはVaglantという小さなインディレーベルに移る。以降は、宅録に近い質素な手触りの歌曲をコンスタントに送り続けた。華やかな表舞台から去り、方丈庵の隠居モードというか、元来のシンガーソングライターとしての佇まいに戻っていった。

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恐らくアルバム制作に費やす資金はずっと少なくなったのだろう。しかし、むしろそのために、彼の紡ぎだすメロディとウィットに富んだ歌詞そのものに純粋に向き合えるようになった。余分なものがそぎ落とされて、肩の力の抜けた多くの佳曲がアルバムには込められている。

その後マークは自叙伝も発表し、ファンは彼の私生活も詳しく知るようになっていく。

私は、マーク・オリヴァー・エヴェレットという天才の放った、ひときわ輝くまばゆい光を、同時代人としてここに証言した。

頂けるなら音楽ストリーミングサービスの費用に充てたいと思います。