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文明都市アテネで哲学者から嘲笑された最も偉大な使徒パウロ


要約

☞洗練、成熟したギリシャ哲学に対して、成立したばかりのキリスト教はどのように対峙したか。

使徒パウロはアテネを訪れ哲学者と論戦をしたが、相手にされなかった。

にもかかわらず、以降ローマ帝国にて急速に広まったのはキリスト教だった。またギリシャ哲学を自分たちの神学に取り入れていった。


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キリストが生まれた頃のパレスチナの文化状況というのは、キリスト教に関心を寄せる者にとっては、非常に気になります。

当時「哲学」は既に相当発達していました。
ソクラテスの死に方とイエスの死に方は、結構似ています。

ソクラテスは、紀元前400年ごろにアテネで活躍しました。
イエスの400年前にもう高度に思弁的な哲学者がおり、しかもその偉大さゆえに大衆に理解されず、殺されました。

そんななかで、紀元1年に生まれたばかりのキリスト教は、アテネの成熟した文化、「哲学」に対してどのような態度を取ったのでしょう?

その答えは、使徒パウロにあります。
彼は、紀元20年~50年ごろにアテネを訪れ、キリスト教の教えを自ら説いていました。

キリスト教の教義を固めた最大の功績者が使徒パウロです。
新約聖書の中の3分の1から2分の1くらいは、パウロが語ったり書いたりしたことです。

イエス・キリストの次に偉いパウロが活躍した時代は、イエスが死んでから10年後くらいからと目されています。
したがって、紀元10年からです。

パウロがアテネへ宣教に訪れたとき、
アテネには、プラトンの建学したアカデメイアも、アリストテレスの建学したリュケイオンもまだありました。

さらに紀元前300年ごろに活躍したアリストテレスの膨大な著作は、イエス・キリストが生まれる直前紀元前40年ごろに再発見、再編集されています。

つまり、当時の超エリート(元々裁判官)であるパウロが、アテネのこういった知的風土を知らないはずがありません。むしろそういう所に乗り込んでやろう、という雰囲気だったと思います。

新約聖書の中でパウロの伝道を伝える「使徒言行録」17-16~34には、パウロがアテネでどういう態度を取ったか、またアテネの人がパウロの事をどう思ったかが描かれています。

とても面白い部分なので、割愛せずに転写します。

「さて、パウロはアテネで彼らを待っている間に、市内に偶像がおびただしくあるのを見て、心に憤りを感じた。
そこで彼は、会堂ではユダヤ人や信心深い人たちと論じ、広場では毎日そこで出会う人々を相手に論じた。
また、エピクロス派やストア派の哲学者数人も、パウロと議論を戦わせていたが、その中のある者たちが言った、『このおしゃべりは、いったい、何を言おうとしているのか。』また、ほかの者たちは、『あれは、異国の神々を伝えようとしているらしい』と言った。パウロが、イエスと復活とを、宣べ伝えていたからであった。
そこで、彼らはパウロをアレオパゴスの評議所に連れて行って、『君の語っている新しい教がどんなものか、知らせてもらえまいか。
君がなんだか珍らしいことをわれわれに聞かせているので、それがなんの事なのか知りたいと思うのだ』と言った。
そこでパウロは、アレオパゴスの評議所のまん中に立って言った。『アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。
実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『『知られない神に』』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。
この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。
また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、
また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。
こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。
われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、/『『われわれも、確かにその子孫である』』。
このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。
神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。
神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである』。
死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、『この事については、いずれまた聞くことにする』と言った。
こうして、パウロは彼らの中から出て行った。
しかし、彼にしたがって信じた者も、幾人かあった。その中には、アレオパゴスの裁判人デオヌシオとダマリスという女、また、その他の人々もいた。

アレオパゴスの評議所というのは、議会と裁判所を兼ねたようなところ。

アテネの人に向かって「偶像崇拝は止めて、ただイエスのみを崇めなさい」とパウロは言ってるんですね。

そして、紀元2世紀ごろに活動した初期のキリスト教思想家(教父)ユスティノスによれば、「『知られない神に』と刻まれた祭壇」とは、ソクラテスの「『未だ人々の知らない神』をロゴス(理性)の探求により知ること」を指している、といいます。

パウロは、ソクラテスの語った「いまだ人々の知らない神」っていうのは、「イエス・キリストのことを言ってるんだよー」「今わかったんだから、他の神様を拝むのはもう止そうねー」と説得してるわけです。

でも、パウロは「おしゃべりクソ野郎」呼ばわりされてます・・・(-_-;)
ソクラテスのようにケンカを売りに行ったようなものなので、当然と言えば当然です。そう簡単に人や文化は変わりません。

しかしながら、ここで冷たく袖にされたパウロの考えこそが、以降ローマ帝国内に急速に広まっていくのです。
また、2,000年前に「パウロが示した宣教のモデル」が、今日と全く変わっていない、という点も驚きです。

ある意味、収監とか殺害といった迫害をしようとまでは思わなかったのが、哲学都市アテネの懐の深さなのかもしれません。(他の都市でパウロは何回か刑務所に入れられています)

これ以降、ユスティノスのようなローマ帝国内にいた初期のキリスト教思想家(教父)たちは、ソクラテスやアリストテレスのギリシャ思想と、パウロの説いたキリスト教思想をどう接合していくかに心を砕いたようです。

また哲学は、15世紀にルネッサンスとして再脚光を浴びるまで、文化の表舞台からは遠ざかることになります。

ステンドガラス

聖書には、さらっととんでもないことが書いてあることがよくあります。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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