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2023年映画感想No.9:ボーンズ アンド オール(原題『Bones and All』)※ネタバレあり

「そうとしか生きられない業」を抱えて生きる人間たちの孤独

ワーナー・ブラザースSNS独占試写会にて鑑賞。ワーナー・ブラザース内幸町試写室。
カニバリズムというセンセーショナルな題材が一人歩きしがちだけれど、決して露悪的な手つきで描くのではなくありのままの自分でこの世界に居られない人間の孤独を詩情たっぷりに見つめる切実な作品だった。人間社会に生きることの破綻として人肉食があり、登場人物たちはそういう性(さが)を呪いのように引きずっている。
これまでも揺るぎなくそこにある他者としての世界を前にその中の個人としての自分をどのように定義できるのかというアイデンティティの問い直しを痛みを伴う通過儀礼的に描き出してきたルカ・グァダニーノ監督の作家性は本作でもしっかりと発揮されている。こんなの観たことないという価値観をそのままフレッシュな映画的アイデアとして語るオリジナリティも健在で、ドラマツルギーと場面ごとの見応えを両立させる語り口も見事。

社会の外側に別の社会がある予感の演出

冒頭、淡々とした中に不穏な予感が染み出してくるような主人公の日常の描写からグッと惹きつけられる。流石に『サスペリア』の監督だけあってすでにホラーの力学が働いている世界であることを示すような異様さを醸す演出が上手い。学校の風景を「外側から見ている」ような視点で切り取る撮影だけで学校=社会の外部の位相が感じられる。
放課後一人でピアノを弾くテイラー・ラッセル演じる主人公のマレンが友人からスリープオーバーに誘われるのだけど、トレーラーハウスの家、過剰に厳格な父親、窓から忍び出す時の不穏なライティングなど一見同級生との日常的な約束の端々に「あれ?」と思うディテールの積み重ねがあり観ている側を不安にさせる。
そこから唐突に始まる凄惨な事態も予感がないからこそショッキングな演出になっているのだけど、それがそのままあの場所にいた「普通」の少女たちの感覚の追体験にもなっていて映画の掴みとして必然的なショックがある。ここで描かれる「自分をコントロールできないことの怖さ」がここから先の全ての場面を貫いているように思う。

一人の少女の切実な孤独

手に負えないからと娘を置いて父親は出て行ってしまうのだけど、保護者を失い、金もなく、旅に出ようにもギリギリのマレンの状況からは社会との接点を失いかけている少女の孤独が切実に浮かび上がる。彼女が父親からのテープを少し聞いては止めてしまう様子に自分自身を否定された痛みを受け入れられないことが伝わってきて切ない。テープを最後まで聞かずにいることとテープを最後まで聞くことに対する期待がせめぎ合っているようでもあり、不条理を前にした一人の少女の反応としてものすごく人間的に映る。
彼女のカニバリズムの衝動がいつどのように現れるのかが観ているこちらにはわからないのだけど、その緊張は彼女自身も強く感じているようにも思う。他者と繋がることに憧れ、それができない自分に絶望してきたのだろうし、そうやって行きついた孤独の中に生きるしかない。

サリー~一線を越えた存在の異様な存在感

マーク・ライランス演じるサリーの登場の仕方も不気味で不穏。ある種ロードムービーの自然な展開から逸脱するような歪な唐突さがこの人物の異物感を強調している。
サリーは食人族として人間社会の片隅に順応して生きる方法をマレンに示すのだけど、自分の中にある暴力性を忌避し、社会的実存を切実に求めているマレンにとって自分は人間ではないと受け入れて生きているサリーに対しては常に一線を越えてしまったものに対峙する緊張感が横たわっている。
食人族として生きることが行き着く先は圧倒的な孤独であり、家族や友人といった社会的なアイデンティティを失いかけているマレンはサリーのようになりたくないからこそ彼が差し伸べる同族へのシンパシーを拒絶し、その繋がりを否定するようにその場を離れる。

リー~"あちら側"と"こちら側"の狭間の存在

ティモシー・シャラメ演じるリーとの出会いの場面も演出として素晴らしい。
本作は冒頭から光と影のコントラストを"あちら側"と"こちら側"の世界があることを予感させるように響かせる絵作りが印象的なのだけど、サリーと出会うのが夜の暗闇の中であるのに対してリーと最初の交流を果たすのが昼と夜の稜線にあるマジックアワーの中のいうのが「彼とならこの世界に新しい可能性を見つけられるかもしれない」という予感を象徴的に演出しているように感じられる。
リーは自分自身の抱える異常性に対して一見順応しているように見えて人間性と非人間性の矛盾に誰よりも痛みを抱えている人物なのだけど、だからこそ人間としていられるマレンとの関係が彼にとっても救いになっていく展開に必然性がある。リーの人間社会との接点となっている妹の存在は同時に父親との関係という彼が自分の中にある暴力性に屈服してしまった記憶と密接に関わっており、だからこそ妹との関係性による自己定義は破綻しかけている。
サリーのセリフにある「同族は食べない」という言葉が彼らの性質によるものなのか理性的なルールとして設けているものなのかがよくわからないのでマレンとリーの肉体的接近にも緊張感をもって観てしまうところがあった。本人たちの中にも自分がどうなってしまうかわからないからこそ人と接することができない不安はずっと存在していたのだろうし、だからこそそういった相手や自分自身への信用できなさを越えて切実に繋がりを求める様子が接近を通じてエモーショナルに浮かび上がる。二人が普通のカップルのように映る場面こそ二人にとって唯一安心できる居場所が見つかったことが柔らかに逆説されているように感じられて感動的だった。

人間性の一線を越えてしまうかもしれない緊張

二人の関係性を安定させない展開の作り方も素晴らしい。マイケル・スタールバーグ演じる同族と飲む場面では何も起きていない段階からずっと緊張感があり、表面的には穏やかな会話が繰り広げられているのに対して常に不穏さがその場を支配している。また、その場に同族ではない人間が一人いるのも厭な緊張があり、他者としてのこの人たちも怖いし、"他者"と接する自分自身も怖いし、一刻も早くこの場から離れたい!という不安を場面設計だけで作り出している。
マイケル・スタールバーグは主人公たち二人よりもさらに段階の進んだ食人族だからこそ「人間辞めたら楽しいぞ」と誘っているようでもあり、それを拒んだらこの人は何をしてくるかわからないという怖さもある。彼が追いかけてくるところのホラー演出なんかは流石の切れ味で、ちゃんと見せ場として記憶にこびりつく演出を見せてくれるところもさすがのルカ・グァダニーノ。
また、リーとマレンの二人が新たに人を食べる場面はより明確に二人の人間性を問い直すような展開になる。倫理的にも感情的にもやはり今の生き方を続けていくことはできないという決定的な破綻が描かれ、それが後の二人の価値観の衝突につながる。同族と触れ合う場面、人を食べる場面や同族と接するところなど人間性の決定的な一線に触れる場面は全て夜に設定されているのも象徴的に感じられる。

マレンの父親と母親の背景にある真実

母親との再会の場面も緊張感たっぷりでドキドキするのだけど、母親に何があったのか決定的なことはボカされているからこそ父親と母親の関係性がグレーに描かれているのもゾクっとする空白になっている。マレンのわずかなフラッシュバックにそのヒントが示されているようにも思うのだけど、それも含めてはっきりとした答えを提示しないところが不穏で上品。
仮に同族も食べないという性質が本当なのだとしたらもしかしたらマレンと生きてきた父親こそが同族だったのかもしれないし、だからこそ母親はその血を受け継ぐマレンを憎んでいるのかもしれない。母親の身に起きたことも誰が加害者で誰が被害者なのかはわからない。その結論はこの映画の中ではあえて曖昧にされているのだけれど、母親との再会がもの別れに終わる展開の背景にあるおぞましい真実を観客に想像させるバランスが場面をより味わい深いものにしている。
旅の果てに自分が追い求めてきた実存を得られなかったマレンに対してリーは自分達の宿命を受け入れて生きていくしかないと言い、それに対してマレンの抱える「人間らしさを諦めた瞬間から私たちは人間では無くなってしまうのではないか」という不安の描き方もテーマの提示として見事だった。

マーク・ライランスが再登場する展開の気持ち悪さ

サリーと再登場する場面の厭な気持ち悪さも流石だった。演じているのがマーク・ライランスということもあり絶対どこかで再登場するだろうとは思っていたけれど、ちゃんと弱みに漬け込むタイミングで声をかけるあたり卑劣だし気持ちが悪い。
自分のことを名前で呼ぶ幼児的な態度とか本当に気持ちが悪いし、勝手にこっちに期待したくせに裏切られた瞬間罵倒するのも自己承認おじさん特有の怖さと気持ちが悪さがある。
こんなどこにでも現れるし何してもおかしくない人物が野放しになったまま話が進んだら明らかに後に彼が絡んでろくでもないことが起きるに決まっているのだけど、とりあえずこの時点では頼むからもう出てこないでほしいという気持ち悪い不穏さだけが残る。

親子二人だけの真実

一旦ハッピーエンドを匂わせてからのラストのもう一展開はやや見え透いていたこともあって若干露悪的に見えてしまった。ただ、食人族として生きることの行く末としてルサンチマンに支配され自分自身をコントロールできなくなったサリーが社会に適合して幸せに生きる二人の生活を壊しにくるという展開は現実に起こるソシオパス的な犯罪のメタファーのようでもあり、後がない人物がなりふり構わず行使する暴力の防ぎようのない怖さにゾッとした。
名前を呼んで欲しいというサリーのセリフや「ボーンズ アンド オール」という全ては理解できない概念による親愛表現などは『君の名前で僕を呼んで』の要素も感じた。親密さとは「あなたになりたい」ことであり、それが翻って「あなたのようになりたくない」という嫌悪が示されているのかもしれない。

決定的な季節を通過した後に残る余韻

決定的な季節を通過した後に残るラストの余韻もいかにもルカ・グァダニーノ監督的。かけがえのない時間の喪失と、それを知ることの希望が温かな記憶によって証明される。悲しみが逆接する人生の美しさがあり、それにたどり着くことこそが生きる意味そのものなのかもしれない。
音楽、撮影も作品の詩情をグッと引き上げていて映画を一段上質なものにしている。そうとしか生きられない自分自身を抱えて生きる苦しみや孤独とその先で他者とともに生きることの切実な承認を見つめる物語で、観る前の印象よりもずっと感動的で胸に迫る作品だった。

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