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一人称単数 / 村上春樹 レビュー

読書に興味を持ち始めた若い頃に何を読めばいいのか分からず、とりあえず手に取ったのが村上春樹だった。正直なところ面白さの半分どころか3分の1ほどしか理解できていなかったが、当時の自分は周りの人たちに村上春樹が好きだと公言していた。

有名な人だし、毎年のようにノーベル文学賞の話題に挙がる人だから面白くないわけがないと思っていた。だから初期の作品から割と新しめの作品まで片っ端から読んだ。1973年のピンボール、ねじまき鳥クロニクル、ノルウェイの森、どれも面白いと思うことにしていた。

それから20年近く経ち、さまざまな小説を読んできて漸く分かったことがある。それは、村上春樹の小説はメタファーに隠された意味を深く読み解くところに楽しみを見出すことができないと、魅力は半減してしまうということだ。

言葉をそのままの意味で捉えても、前後の文章と繋がらず、意味が分からないことが多い。ダブルどころかトリプルミーニングにもなっているのではないかと思われるような言葉や仕掛けがそこら中にあるのだ。何か意味があるように見せかけて実は何も意味がないのかも知れない。そんなことを読者に考えさせるのも村上春樹の力なのだろう。

勿論、中にはあまり深読みしなくても抜群に面白い作品もある。例えば「海辺のカフカ」の上巻(下巻は深読みが必要だ。)や「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は最高におすすめだ。

今回の短編集に関して言えば、深読みが必要な作品は半分程度の割合だ。ふとした成り行きで一夜を共にすることになった、短歌をつくっている女性とのエピソードである「石のまくら」、ある女の子から招待されたピアノ演奏会の、会場近くの公園で出会った奇妙な老人が印象的な「クリーム」は、さまざまな解釈で読むことができそうだ。

もう一つの魅力は文章から醸し出される独特の雰囲気だろう。現実と非現実が交差する幻想的且つ、ノスタルジアを感じさせる文章。いつの間にかクセになってしまい、ページを繰る手が止まらなくなるのだ。世の中にハルキストと呼ばれる人たちが沢山いることに納得できる、不思議な魅力がある。

この感覚は先ほどの二作と、若き日にジョークで書いた架空の批評と同じタイトルのレコードを、中古レコード店で見つけてしまう「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」、ビートルズのLPを大事そうに胸に抱えていた1人の女の子と、人生で初めて付き合った女の子とその兄との思い出を語る「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」から特に感じられるだろう。

僕の記憶に残っている女性たちのなかでいちばん醜い女性との交流と、大学時代のダブルデートで知り合ったあまり容姿がぱっとしない女の子とのエピソードを描く「謝肉祭(Carnaval)」の最後にはこんな一文がある。

それらは僕の些細な人生の中で起こった、一対のささやかな出来事に過ぎない。今となってみれば、ちょっとした寄り道のようなエピソードだ。もしそんなことが起こらなかったとしても、僕の人生は今ここにあるものとたぶんほとんど変わりなかっただろう。 p.183

これは今回の短編集のすべての作品に共通する本質を捉えた一文でもある。村上春樹自身の人生におけるさまざまな体験に、あってもおかしくない、でも、現実にはあり得ない虚構を混ぜ込んだ8作。(小説というよりもエッセイに近い「ヤクルト・スワローズ詩集」は除くべきかもしれない。)

村上春樹の魅力を存分に堪能出来る一冊である。