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新入社員という「弱い存在」。理想と現実に苦しんだあの頃。

私が自動車メーカーのマツダに就職したことについて以前の投稿で書きました。…しかし、新入社員として最初から自分の希望したキャリアを歩めたわけではありませんでした。

むしろ、意思に反して長い間、自動車工場の季節工のように働くこととなり、

「こんなはずじゃなかった」

という下積みから始まったのが私のキャリアの始まりでした。
リアリティショックもなかなかにいいところで、同期も数人当時は倒れました。

…そして、その間、病気で入院し、一度は本当の意味で、死を覚悟しました。

「もう自分の人生は終わったかもしれない。」

そう思った私が、自分を取り戻し、復活するまでの話を書こうと思います。

自動車工場へ。受け入れられないキャリアの現状。

大学を卒業し、広島という縁も所縁もない地方に行くことになり、内定式の直後に衝撃的な発表を受けました。

「夏から来年4月まで、工場で工員として働いてもらいます」

私のような事務系社員も、東大や京大を出た博士達も、全員が一律に工場で働くことが決まりました。男女も関係ありませんでした。

この長さで働くことになった年代は、あまり前例が当時はなかったと思います。(オイルショックの頃は、販売会社に続々と出向させたことがドキュメンタリーには残っていましたが、、)

リーマンショック、東日本大震災、歴史的円高と、連続赤字に苛まれていたマツダは経営としては後に引けない状況であったと思います。そして「工場応援」という形で、2012年入社組を通常より長く工場に派遣することに。

私が働くことになったのは、車体の重いパーツをひたすらマシンにセットする製造ラインでした。

昼間に働く日勤をやった次の週は、夜から働く夜勤。昼夜をひたすら毎週逆転しながら働くという生活をしていました。

このリズムに慣れるのが、まず大変でした。

毎日、ひたすら同じ場所を行ったり来たりしながら、部品を運ぶ。
万歩計で測ってみると、1日あたりの歩数は2万2千歩でした。

体重も、入社時から15キロ減少。

病んで、工場内での配置転換を希望したり、休職した同期も何人かいました。

私にとって、一番つらかったのは、よせばいいのに、東京で働く大学を卒業した知人らと接触したことです。

東京に帰ると、「今、こんなすごいことをやっている」とマウントを取る人が一定数いました。

私が、会社の事情もあって、期間工のように働いている現状については、嘲笑われたかのような、そんな感覚を覚え、正直に言えば嫉妬のような感情を持たずにはいられませんでした。

そんな苦しみに、苛まれました。

「こんなはずじゃなかった、こんな思いをしたくて広島に出てきたわけじゃないのに」と、やり場のない感情を持っていました。

がんの疑い。「劣等感を抱いたまま死ぬのかおれ」

そして、ここで私の体にも変化が出てきます。

毎日、下血が止まらないのです。たまたま、作業中に傷つけた程度かと思っていたら、そんな量ではないような血を毎日見ました。

こんなのは一時的なはずだ、と思っていたけれど、それでも止まらない。

おかしいと思って、病院に行きました。

すると、医者が真っ青になって

「これはすぐにでも内視鏡検査と手術をしたほうがいい」

と、私に伝えました。もう、私は何が何だかわからない。

そして、内視鏡検査。

意識が朦朧としながらだったけれど、医師に「大腸に腫瘍がある」ということを伝えられました。

そして、いま切除する意思があるか確認され、「はい」といったところで、麻酔を追加されたのか、私はそこで意識を失い、気が付いたらベッドの上に横たわっていた。

そして、1週間の入院が決まった。軽くどうしたらいいかわからず病院に行ったつもりが、突然の入院となったので、職場には迷惑をかけたと思う。

そして、医師から告げられる。

「はっきり言うと、若いあなたにとってつらいかもしれないが、癌の疑いがかかっている。検査結果は、数日で出ると思うから、それまで待っていてほしい」

苦労して就活して、なんとか大企業に内定して、広島に出てきたはいいけど、それでいて、キャリアが始まることすらなく、自分の人生は終わるのか。

このまま本当に儚い人生として散ってしまうのだろうか、、

大学時代の同期に、劣等感をひたすら抱いた、そんな人生でよかったのだろうか。

自分の人生を振り返って、涙が出てきた。

そして数日後、…若年性ポリープという、良性の腫瘍であったことがわかった。

ああ、よかったと心から安堵した。そして、自分が幸運であったことを感謝した。

命拾いをしたような気分だった。

同期への劣等感とか、何をちっぽけなことで悩んでいたのだろうか。
この助かった命で、何かを成し遂げよう、そう思いました。

つらいときは、自分の原点を思い出そう

当時マツダのロシア・ウラジオストク工場(MSMR)が開所し、プーチン大統領がその開所式に出席したというニュースがありました。

たまたま、工場で普段働いているわたしに気を使ってくれ、食事に誘ってくれた本社の先輩が、このニュースの舞台裏に関わっていた先輩で、少し裏話をしてくれました。

当たり前だけれども、日本外交にも、自動車メーカーがかかわりがある。
そう思った瞬間、自分のなかで何かがはじけたものです。

なぜ、自分がこの会社に来たのかを、改めて考えさせられた。

官僚の父を持った僕は「日本の国益」という言葉に敏感に育ってきたのです。

母子家庭で育ち、僕は父には物心がついてから一度も会ったことがありませんが、自分の意識のどこかには、その影響を少なからず受けていたように思います。

母は自分が生まれる前は、父の駐在に同行し、アメリカとマレーシアに居た。その頃の駐在員の周囲の官僚が、どんな思いを持って仕事をしてきたかを聞いて育ったのです。

まだ、世間では官僚バッシングがされる前で、バブル全盛期の時代のことだから、おそらくこの時代の官僚は相当な熱意を持って仕事をしていたのでしょう。

そんな話を聞いて育ったことが、自分がいつか「日本のために」と思うようになったきっかけだったと思う。

そしてゆくゆくは駐在員に自分もなり、マツダを通じて色んな国と日本の二国間関係を考えて行くことが出来れば、と強く思いました。

この、自分の原点を思い出したことをきっかけに、

「工場実習なんて一時的なものじゃないか。なんとか耐えよう」

と思うようになりました。そして、前向きになりました。

そして、同級生に対して抱いてきた劣等感についても、自分のなかで、気持ちに整理をつけてカタをつけました。

「恥は一時だけど、志は一生だ」と。

それから、むしろ工場についてしっかり勉強しようと思って生産マイスター検定という資格を取得したり、自動車工場について研究した本を何冊も読みました。

「いつか、海外の自動車工場に赴任しても、きっとこの経験を役に立ててみせる」

そう思ったのです。

拾った命は、日本社会のために役立てよう、と。

実際、その後も、工場での経験は役に立ったものです。大学生のとき本で読んだときは、トヨタ式の何がすごいのかとかも全然実感がわきませんでしたが、製造ラインがいかに重要かは、なかなか現場にいかないとわからないものだとおもいます。

エピローグ

新入社員で、つらいと思っている人は、「本当に自分がしたいことはなにか」を振り返ってみるのも一つ、なにかをつかむきっかけになるかもしれません。

本文でも触れましたが、恥は一時、志は一生です。

人にどういわれようと、自分自身の歩みたい道を、大事にしてください。

P.S

紆余曲折あって、わたしは僕はマツダを家業を継ぐことになって辞めた。

けれど、今だって、この思いは一切ぶれていない。
海外では当たり前にあっても、日本にない。

そんなことがあっていいとは私は思えませんでした。
こうした思いから、オンラインで心理検査を受けられるサービスを開始します。

メンタルヘルス領域の充実は、ひいては日本の国益になるはずだ。

今も、強い思いを持って、金子書房を経営しています。

応援してくれると嬉しいです。

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