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『リメンバー・ミー』から考える「生」と「死」の話

はじめに

ディズニー/ピクサー映画の『リメンバー・ミー』(原題:Coco)をご存知だろうか。2017年に公開されたもので、ざっくり言うと現実世界と死者が暮らす「死者の国」を行き来した一人の少年の物語である。

僕はこの映画がとても好きだ。その理由は色々あるが、今回話したいのは、この作品における人間の「生」と「死」の位置付けが自分自身の中のそれの捉え方にピッタリハマっていたということだ。2019年2月に初めてこれを観て、物語中の世界の仕組みを知れば知るほど、フィクションでありながらなんと本質をついた設定なのだろう、さすがディズニーだな、と興奮したのを覚えている。ディズニー映画には物語の設定にドキッとさせられることが多い。

そこで今回、自分の「生」と「死」の捉え方と『リメンバー・ミー』における「生」と「死」について書いていきたいと思う。

1. 「死者とのコミュニケーション」という違和感

さて、まずは僕自身の「生」と「死」の捉え方について書こうと思う。

2018年春、大学3年生の時に受けた講義で、東日本大震災の被災地に「風の電話」という電話ボックスがあることを知った。

岩手県大槌町に「風の電話」と呼ばれる白い電話ボックスがある。ここにやってくる人は電話ボックスの中に入り、黒電話の受話器をとって亡くなった人に話しかけたり、伝えきれなかったことを呼びかける。しかし、電話線はつながっていない。受話器を取っても音は聞こえず、誰かにつながることもない。(引用元:村上寛剛・金菱清(編)(2018)『3.11 霊性に抱かれて 魂といのちの生かされ方』新曜社 (108))

何か心に引っかかるものがあった。

亡くなった人は脳が働かないので喋ることはおろか聞くことも考えて理解することも頷くこともできない。それでも多くの被災者がこの電話を利用し、故人に話しかけたという。

しかしながらそういう状況に対してなんとなく納得している自分もいた。なぜそのように冷静に考えると不思議な行為が自然に思えるのだろう。違和感を覚えなかったことに対して違和感を覚えた。

考えてみれば、お墓の前や仏壇の前、あるいは故人の写真の前でその人が目の前にいるかのように話しかける人は多い。そしてそれに「いや死んでるんやから意味ないやろ」と口にする人はいない。ほとんどの人はこの行為を妥当なものとして受け入れている。

これが、「生」と「死」について深く考えるきっかけだった。そしてしばらく考え、僕は以下のような考えに行き着いた。

2.僕の 「生」と「死」の捉え方

これから、「生きている人とのコミュニケーション」と「死んだ人とのコミュニケーション」について述べたい。下の図は、「私」と生きているAという人とのコミュニケーションを表したものだ。

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上図のように、「私」がAとの相互的なコミュニケーションを通じて得られたAの情報を元に、A'という人物を心の中に作り出していると考えている。
今これを読んでいるあなたも、友達とのコミュニケーションを通して彼/彼女の情報(性格や能力など)を知り、自分の心の中に彼/彼女の人物像を創り出しているということだ。

AとA'は別人であり、完全に一致することはない。ある個人という存在が本人でも理解しがたいほど難解で複雑であるということや、個人の内面が周囲の環境や人々に触れることで日々変化していることなどに因る。

しかし何れにせよ、「私」という一個人の認識にとってのAこそがA'であるので、「私」にはAとA'が「別人」という感覚はほとんど起こらないし、そもそも「自分が知っているAは本当のA」ということを無意識の内に前提として物事を考えてしまうケースが多い。僕自身もそうだ。

次に、Aが死んだ場合を考える。

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Aが亡くなったとき、"A"は存在しなくなる。しかし、「私」は存在しており、「私」の思考もまた存在している。つまり、「私」の思考の中に在るA'も存在し続けている。これにより「私」はA'に話しかけることが可能になるのである。

しかもA'は「私」という一個人の思考に依る主観的な存在なので、客観的事実がなくとも、「私」が「この場所にA(')がいる」と思うだけでそこにA'は存在することができる。その場所の多くがお墓や仏壇、写真だったりするのだ。

そして「私」が死によって存在しなくなったとき、もしくは何らかの理由で「私」の思考からA'が消えたとき、A'という存在がようやく消える。

以上が、僕が行き着いた「生」と「死」の捉え方だ。これを踏まえて、『リメンバー・ミー』の世界を紹介していきたい。

3. 『リメンバー・ミー』の世界

まずはこの動画の1:44-2:03を観て欲しい。綺麗なオレンジ色の橋と、色とりどりに輝く街のような景色が見えるはずだ。ここからそれらの正体について説明していく。

『リメンバー・ミー』の舞台はメキシコ。そしてメキシコに実際にある「死者の日(Day of the Dead)」という祝祭を元にしている。

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物語の中には生きた人々が生活している世界(=「生者の国」)の他に、「死者の国(the Land of the Dead)」という世界が存在する。そこでは、生者の国で亡くなった死者たちがガイコツの姿をして暮らしている。

年に一度の「死者の日」という祝祭の日、生者の国の町の人々は祭壇に故人の写真を飾ったり、町や家を華やかに装飾したり、お墓参りをしたりして、死者たちに思いを馳せている。

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そして死者はその日だけ、生者には決してその姿は見えないものの、死者の国から生者の国への橋を渡って自分の家族(子孫)に会いに行くことができる。

しかし、生者の国へ渡るには、ある条件がある。

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「生者の国の祭壇に自分の写真が飾られている」というものだ。写真が飾られていなければ、死者の国の出口を出ることができない。上の画像のように、保安ゲートのようなところで一人一人顔を認証し、チェックするのだ。どうやら生者の国の祭壇の写真のデータベースがあり右の機械がそれにアクセスできるらしく、そこに一致する顔があれば通過を許可される。

つまり、子孫に想われている死者だけが生者に会いに行くことができるのである。

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また、死者の国で過ごす死者は、永遠にそこにいられる訳ではない。生者の国にその死者のことを覚えている人がいなくなったとき、すなわち完全に忘れ去られたとき、その死者は死者の国からも消えて無くなる。作中では「最後の死(the final death)」と呼ばれている。

4.『リメンバー・ミー』が描く「生」と「死」

生きた子孫に想われている死者だけが生者の国へ渡れる。生者に忘れられた死者は「最後の死」を迎える。これらのことから、死者の国で暮らす「死者」の「命」は「生者からの認知・関心」である、ということが分かる。生者に想われている死者こそが「死者」として存在することができるのだ。

これを僕の「生」と「死」観に照らし合わせたとき、大きく共通するものがある。人間の医学的生死に問わず、人々の認識によりその存在が定義される、という点だ。

ある他者が亡くなったとしても自分の心の中に存在していれば話しかけることができるということ。生者に想われていれば死者の国に存在することができるということ。それは、ドラマチックに言うところの「心の中に生きている」という状態である。

僕はこれが生死の本質なのではないかと思っている。『リメンバー・ミー』は、その本質を具体的にファンタジーの世界で表現してくれた映画なのだ。

おわりに

長くなってしまったが、以上が僕のリメンバー・ミーが好きな理由だ。もちろん他にも好きな理由はたくさんある。これを読んでもし気になった人がいたら是非映画を観て欲しい。メキシコの家族を大事にする文化が色濃く反映されているような内容なので、特に家族愛の物語に弱い人なら、きっと感動するだろう。


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