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DAY3:言葉の体温

「彼氏や旦那さんの存在は、お客さんの前では絶対に隠すこと」

これはこのスナックで働く女の子に課せられた掟のひとつである。

お店に来るお客さんの大半が前期高齢者以上のこのスナックにおいて、その掟は果たして必要なのか......?と思うこともあるけれど、ママが決めた掟なのだから仕方がない。

お店にいる女の子は20〜30代の女性なので、もちろん彼氏がいれば旦那さんがいる子もいる。

チーママだって結婚しているけれど、勤務中は結婚指輪を右手の薬指に付け替えその他にもファッションリングをつけることでカモフラージュしているのだ。


私も結婚している。

夫とはお互い個人としてやりたいことや時間を尊重できる間柄で、私が「ずっとスナックでバイトしてみたかったんだよね」と切り出したときも「いいんじゃない。新しいことをはじめるのは楽しいもんね」と二つ返事で承諾してくれた。本当によく出来た夫である。




そんなこんなで、このスナックに立つのももう3回目になる。スナックに向かうときの緊張感も少し解けてきた。

今日もワンピースを着て、指輪を外し、お化粧をして、お客さんをお迎えする。

(お迎えする、というよりお客さんとはかなりカジュアルな関係性で、彼らはふらっとやってきて話したいこと話してお酒を飲んだら去っていくだけなのだけど)





「君くらいの年だったらさ、とっとと結婚したほうがいいんだよ。ほら、失敗するにしても早めがいいじゃない? もし万が一うまくいったらそれはそれでラッキーてことで」

「君は30歳? へー。ちょっともう行き遅れって感じがするね。本当にこんなところで働いてて大丈夫なの?」



またはじまった。自称映像監督の常連Iさんの言葉だ。こちらに交際相手がいないと思い込んでいるからこうした発言が出てくるのだけど、いやしかし、なかなかひどい言葉を投げられたもんだ。文字にしてみて改めて驚いた。

もし会社の会議室なんかでうっかり同じ発言をしてしまったもんなら、すぐに「時代遅れ」「コンプライアンス違反」「セクハラ」の烙印を押されることだろう。

ただここでは女性軽視の問題に切り込む予定はない。常連たちをフォローするわけではないが、文字にして伝わる温度と、実際にスナックで話しているときの温度はかなり違っている。本当に体感としてそうなのだ。

(なんならそのときの私は「あ、これは何か執筆のいいネタになる匂いがするぞ」とわくわくしていた)



なぜ嫌な気がしないのか改めて考えてみると、それは発言の裏にある「この場を楽しませよう」という魂胆が透けて見えたことにあった。言葉を言葉の通りに受け取るのではなく、その上位概念にあるコンテキストを共有しようぜ!という気概を感じたのだ。


「今日もまたいるのかよ、変なやつだな」

「おー!とうとう奥さんに逃げられたか」

「なんだよきもちわりぃ店だな」


文字にすると一見ただの悪口としか思えないこれらの言葉はスナックでは挨拶のように軽やかに使われている。先ほどの「結婚してないなんて可哀想なやつだな」的な発言もこれらの挨拶と並列し存在している。


「今日もまたいるのかよ、変なやつだな」

→互いの生存確認

「おー!とうとう奥さんに逃げられたか」

→ここ(スナック)には家庭や職場特有の「こうあらねばならない」というしがらみはないはず!

「なんだよきもちわりぃ店だな」

→そんなことを言い合えるという信頼関係の確認がしたいのだ


といった具合に、これらはスナック流超ハイコンテキストコミュニケーションなのだ。もしスナックに向いている女の子とそうでない女の子がいるとすれば、この部分を理解できるかどうかというのは両者を分けるかなり大きなポイントになる。


スナックの日常では、こうした意味不明だけど常連なりのユーモアを託した挨拶が多く存在している。

そしてその多くがおそらく頭で考えずにかなり反射神経的に使われている。こうして文字に起こして記録しておかないと、するすると溢れおちて翌朝にはお酒と一緒にさっぱり忘れ去られてしまいそうなほどに。


このスナック流超ハイコンテキストコミュニケーションに打ち返す能力を、その場にいる人々がみんなが共有できたとき、きっとここは誰にとっても心地よい社交の場になっていくのだろう。

そこには所詮酒の場のコミュニケーションだからと侮蔑してはいけない、人間が人間らしくあるための会話の本質があるんじゃないかと考えている。


最後にレイ・オルデンバーグの著書『サードプレイス』からの一節を。

優れた政治対話は「幅広いものの見方」を生み出し、示してみせる。そういう場で、わたしたちは物事のつながりをーそしてわたしたち自身のつながりをー認識する。そういう場で、わたしたちは社会全体の構造と機能にたいする理解力を培う。そして、それはわたしたち自身を民主的に統治する能力である。......すぐれた政治対話は、わたしたちの相違のなかにある共通点を見出す場でもある。

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