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『花束みたいな恋をした』感想

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「自分は "世間" よりも一段センスの上の趣味を持っている人間だ」とか、「自分とまったく同じ趣味のひとと出会えたらなぁ」とかいった思いは多くのひとがいくらかは抱いたことがあるだろう。その頻度や、現在進行形で抱いているか否かはそれぞれだとしても。

『花束みたいな恋をした』は、そんな、ありふれた幼稚な観念をそのまま映画というフィクションのなかで現実化してみたところから始まる。だから、麦と絹は、お似合いのカップルというよりは、ほとんどドッペルゲンガーみたいなもので(本作の類似作に、例えば『ファイト・クラブ』などがある。だからあのときふたりは同じ靴を履いていたんですね~)、したがってこれは恋愛映画というよりは、自分自身と付き合って破局する話だった。

ふたりの破局は必然である。だって絹と麦は「ふたり」ですらなかったし、彼/女らがしているのは「恋愛」でさえなかったのだから。深夜のファミレスで互いにスマホを向けあう告白シーンなんかは露骨過ぎた。現代における「鏡」とはスマホのカメラ画面であるのだ。あるいは、この映画で描かれるのはセックスではなくオナニーである。これは「ふたりのセックスは実質オナニー=自己満足行為に過ぎない」みたいな批判的価値判断ではなく、単に事実を述べただけだ。自分の「ハイセンス」な "趣味" が肯定される甘美な楽園をつくってそこに閉じこもる「若者」のおはなし。わたしにとって『花束みたいな恋をした』はそんな映画だった。

鏡写しのように自分とまったく同一人物と付き合う。この対称性が完璧に保たれていたら、それは実質的にはひとりでただ生きていくのと変わらないのだから、「何も起きようがない」。正確には、何が起きようと、それらは何かが起きたことにはカウントされない。ひとりでただ生きているのだから。


しかし、鏡写しのような麦と絹のあいだには、それでもかろうじて、しかし根本的な、というか生まれながらに非対称な差異がいくらかあった。ルーツとジェンダーである。

まず、新潟県長岡市に生まれ、花火職人の父を持つ麦は大学進学で上京してきたのに対して、両親とも広告代理店勤めのエリートサラリーマン家庭に生まれた絹は東京生まれ東京育ちの都会っ子であろう。この出身地・家庭環境の差異が、ふたりの「社会人」観の差異にも繋がっている。家父長制が根強く残る田舎の職人の家で育った長男の麦は、ふたりの関係を永続させるために、じぶんが正社員となり手堅く稼がねばならないという強迫観念に突き動かされ、「社会」の倫理に絡めとられていく。たほう、都内の上流家庭で育てられた箱入り娘の絹は、両親への反発も内面化しているのか、無理に正社員にならずともフリーター・薄給の派遣社員などを渡り歩いてのらりくらりとテキトーに生き延びていく人生設計をさほど苦も無く思い描くことができる。

これらはふたりのルーツや内面からくるジェンダーギャップであるが、もちろん、より本質的にこのふたりの男女のすれ違いを生み出しているのは、いまだ根強く性差別の残る現代日本社会のしくみそのものであろう。麦は、先輩の彼女のように絹も銀座で親父たちをたぶらかすキャバ嬢まがいの行為に手を染めてしまうことを恐れ、今のような経済的に苦しい同居生活を続けるわけにはいかないと決意するのだ。あるいは、大卒フリーター男女がふたりで就活を始めても、病院の事務職というポストに就職が先に決まるのは女性である絹のほうなのだ。

このように、ほとんどドッペルゲンガーのように自分と同じ趣味を持つ人間と出会ったとしても、そのルーツとジェンダーにおける相違点から対称性は崩れていく、という現代日本社会への批評の鋭さが、わたしがこの映画でもっとも感心したところだ。この映画は、サブカル固有名詞を表面的に大量に散りばめることでもひとつの時代の刻印という機能をある程度獲得しているが、より本質的な「現代性」はそこにあると思う。

上述のように、わたしは、絹と麦のふたりが恋人としてうまくいっているあいだは、実質ドッペルゲンガーかイマジナリーフレンドとの閉じた触れ合い=自己愛撫をやっているようにしか見えなかったため、ふたりが就職してすれ違いが増えて関係が悪化してきたとき、ようやく「ひとり」ではなく「ふたり」になって、「自己愛」ではなく他者愛すなわち「恋愛」が始まった、と思った。それは──恋愛至上主義に与するつもりは毛頭ないが──すくなくとも麦/絹にとっては寿ぐべきことだと思った。ふたりの雰囲気が悪くなってきたら嬉しかったし、別れたらもっと嬉しい。ようやくこいつ(ら)は幼稚な自己完結的楽園から抜け出せたのか……と。※

※勘違いされるといけないのでいちおう言っておくが、これは「若者」がモラトリアムを脱却して「大人」になった(=社会的な成長を果たした)、ということではない。モラトリアム真っ最中の若者でも絹=麦のような自己愛パークの外で適度に他者と付き合いながら楽しくやっている者はいるだろうし(それが多数派だろう)、逆に世間的には「大人」とされる人間のなかにも、本質的には自己陶酔ワールドのなかで生きている者もいるだろう(既婚者・子持ちでもいることはあり得る)。

だから、破局が近づくにつれ、あぁ良かった、このまま「ふたり」は別れて、別れることで初めて「ふたり」になれてハッピーエンドなんだな、と考えながら観ていたら、終盤の知人の結婚式のシーンで、冒頭のファミレスでのふたり(もっとも同一人物だったときの「ふたり」)に戻るかのように、「この結婚式が終わったら別れようと思う」などとまったく同じことを同時に喋る演出があって崩れ落ちた。いや結局ドッペルゲンガーに戻ってしまうんかーいw と。これまでの積み重ね……すれ違いを積み重ねて着々と関係を悪化させてきた尊い道程の意味はなんだったんだと。お行儀よく再び深夜のファミレスで向かい合って(今度はスマホ画面をテーブルに伏せて)別れ話を切り出そうとするシーンでは、いちおう絹と麦の振る舞いの差は顕著に描かれていたが、あれはあれで形骸的な「男女差」の神話の再生産という印象で好きではない。

それでけっきょく、あと一歩のところで別れられない(=「ふたり」に分かれられない)どんずまりの彼/女らを救ったのは、4年前の自分たちの再演かのような、ひとまわり若いサブカル男女の初々しい光景であった。なんということだ。目の前に現在の自分ひとりの生き写しをもう一体つくって始まった「ふたり」の物語は、最終的に、過去の自分たちふたりの生き写しを目の前につくり出すことによって強引に幕を下ろしたのである。これぞ、毒を以て毒を制す。きれいに解決したんだか解決してないんだかわかったものではない。

この、4年前の自分たちふたりの生き写しに「出会う」という行為には少なくとも二重の進化/深化がある。まず、自分ひとりではなく、自分たち「ふたり」をコピーして出現させたというところ。しかし、この時点でも再びふたりは「ひとり」へと限りなく戻ってしまっていたのだから、ふたりコピーといっても、実質、ひとりを生き写すのと大して変わりないとも言える。

より重要かもしれないふたつ目のポイントは、現在の自分(たち)ではなく、過去の自分(たち)をコピペしている点だ。自己コピー能力に時間の自由度も加わったことによって、絹/麦は現在の自分(たち)を客観視することができ、めでたく分かれることに成功したのだといえる。幼稚な自己充足的楽園に閉じこもっていた人間がそこから抜け出すための手段として、この映画が提示したのは「過去の自分に出会う」ことなのだ。「他者」に出会うことで自分という檻から抜け出せたのではないところが肝心だ。言い換えれば、われわれは誰しも、真の「他者」として向き合えるのは(過去の)自分自身だけである、ということだ。「自分の殻に閉じこもってないで他人に目を向けよう」ではなく、「自分の殻に閉じこもっていられる程度なら、まだ自分を見つめることが足りていない。ただひたすらに自分自身を世界のすべてに生き写して見て、「これはもう自分ではない」という欠落と喪失の感覚を積み重ねていった先にしか、真の他者との出会いはあり得ない」と『花束みたいな恋をした』は教えている。



・そのほかの感想ポイント

Googleマップのストリートビューに自分たち2人が映り込むことを、ふたりの幸せな歴史の何よりの肯定として喜ばしく幕を閉じるのは、いろんな意味で現代的で良かった。これだけリッチな映像水準の映画のラストシーンに、ストリートビューのそれほど画質の良くない(もちろん構図なども練られていない)荒い非・映画的な画面をもってきてハッピーに演出することの批評性もそうだし、多摩川沿いを歩く2人の顔がぼかされて匿名性=普遍性を帯びるのも当然そうだし、それから、Googleという巨大グローバル資本への楽天的な従属という観点でも興味深い。思い返せば、絹麦の趣味は総じて日本国内のカルチャーに占められていた。本棚に並んでいる文庫本は日本人作家のものばかりで海外文学がひとつもなかったのが気になったし、漫画はMangaだし、押井守を「世界水準」と誇るところからふたりの関係は始まったし、ゲームは任天堂だし、演劇はままごとだし、音楽も邦楽ばかりだったように思うし、お笑いだってドメスティックな文化だ。忘れちゃいけない、示し合わせたようにJAXAのトートバッグをデートに持参してきていたのも一見意味不明だった。でも、NASAじゃ駄目だったんだ。これら2人の趣味の不自然さにすべて説明が付けられそうだ。ふたりは「自分の趣味は優れている」と素朴に信奉しているのと同じように、おそらく無意識に「自分の生まれ住む国は優れている」という、ゆるふわ右翼的な価値観をも内面化しているのだ。(クリスマスに交換していたプレゼントのイヤホンも国内企業製品だったか?)

ではこの映画中でもっとも日本という一か国を離れたグローバルな話題はなんだったかというと、それはおそらく、絹の父親(広告代理店勤務)の言った「いまオリンピックやってるんだよね」だ。オリンピック。世界規模の金が動き、世界規模の利権が絡み合うトポスとしてのオリンピック。「東京」オリンピック。否応なしに政治性を帯びるイベント。その話題を口にしたのは、(その時点での)ふたりの「敵」である、絹パパだった。これを、日本(および東京)の文化に閉じこもる若者ふたりvs.世界規模の世界観で生きるエリートサラリーマン中年男性(大人であり親) という対比構造で読んでもいいし、やがて激務に追われる麦も同じ「社会人」に堕ちることを踏まえると、表面的には国産カルチャーを礼賛している麦の奥のほうにこびり付いているグローバル資本へひれ伏してしまう性根と響き合っているともとらえられる。

もうひとつ、日本国外の文化の話題として登場したものがあった。国立科学博物館の「世界のミイラ展」である。……これはどう解釈すべきか? いちばん安直には、これは彼女らの素朴なエキゾチシズムの発露だと読む線がある。もう少し踏み込んで、彼女らは日本以外の「世界」をもはや「ミイラ」というエキゾチックで退廃的で象徴的な次元でしか興味を持つことができないのだとすることもできよう。
エキゾチシズムといえば、これは国粋主義というよりは東京中心主義だけれど、ふたりが愛読するアイコンとしての漫画が『ゴールデンカムイ』なのも象徴的だ。アイヌという本来は「日本」ではないものを「日本」へと取り込んで征服していく近代日本の帝国主義とコロニアリズム。そんな政治的な観点から『ゴールデンカムイ』の描写の一部も批判されていたが、おそらくふたりは、そうしたリベラルな指摘には直情的に反発するか、そもそも関心を持たないだろう。多和田葉子とか『たべるのがおそい』とかを読んでいるわりには、フェミニズムや左翼思想に興味が薄そうなのもそう考える一因である。

・最後の深夜のファミレスでの4年前の生き写しカップルが好きなバンドが羊文学、というところで、あぁきのこ帝国は(映画制作時点で)解散済みだからこうして「次」の世代のバンドを出すことができるんだなぁと笑ってしまった。というのも、その後で同じように若いカップルが今読んでいる本を教え合うくだりで「えっ、穂村弘とか堀江敏行とか今村夏子とかたべおそとかの「次」の世代の国内作家として誰を出してくるんだろう!?」と楽しみにしていたのに、けっきょく文庫カバーは外されずに具体名は出されずじまいだったことを残念に思うと同時に、「あぁそうか、きのこ帝国は解散しているから「次」のバンドを出せるけど、あれらの文芸作家はいまだバリバリ現役だから「次」を迂闊に出すことは憚られるのかぁ~」と納得したためである。古井由吉や大江健三郎は死んだけど、絹も麦もそのへんは読まなそうだしな・・・。

・てかブックカバー使うのってそんなに当たり前なん? と思ったけど、それはふたりが主に文庫本を読む層だからで、じぶんは逆に単行本の、それもみすず書房とか国書刊行会などの、デカさも厚みもバラエティに富んでいる本ばかりを読んでいるからブックカバーを使う習慣がないんだな、と腑に落ちた(これはしょーもないマウントです)。

・ついでに言わせてもらうと、「恋人とふたりで寝転んで読んで泣く漫画」として『宝石の国』が使われていたのには、「『宝石の国』を読んで泣いている奴はバカです(意訳)」noteを書いたにんげんとしては断固反対しなければならない・・・。


・これも自慢だが、Cody・Lee「drizzle」きっかけでそれこそ4年ぶりくらいに、今週はきのこ帝国を聴き返していたところだったので、カラオケシーンで「クロノスタシス」のイントロ1小節が流れた瞬間に反応して一緒に「コンビニエンスストアで~」と歌い出すことができて嬉しかった。そのために観たとこあるからね。

・きのう『血まみれスケバンチェーンソー』とかいう真っ当なB級映画をみたばかりだったので、『花束みたいな恋をした』は脚本も映像もちゃんとしていて、「ちゃんとした映画だ・・・」と感動してしまった。




自己閉塞的な独我論の世界を描いている点で、『花束みたいな恋をした』は『TENET テネット』などともかなり似た内容の感想を抱いた。


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