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11巻感想 - コメディとしての『宝石の国』



【注意】このnoteは『宝石の国』11巻(最新巻)までのネタバレを大量に含みます。一切配慮しません。アニメ勢や、そもそも全く『宝石の国』に触れたことのない方はくれぐれもご注意ください。




最新巻が発売される毎の恒例行事となっていますが、どんな展開で終わっていたのかを思い出すために1巻から読み返しました。そのため、このnoteは「11巻の感想」と銘打たれていますが

① 1〜10巻の感想
② 11巻の感想

という2部構成で書いていきたいと思います。



① 10巻までの感想など

私は『宝石の国』が好きですし、素晴らしい作品だと思っています。しかし、ネットでしばしば見かける『宝石の国』ファン(おそらく私なんかよりもずっと熱心な読者)の声には前から違和感を覚えていました。それは、本作を「とても救いのない辛い物語」「巻が進むたびに状況の悲惨さが増してゆく、地獄のボジョレ・ヌーヴォーのような作品」と評するような意見です。(藁人形の設置)

もちろん、私も彼ら/彼女らと同じ漫画を読んでいるはずですから、このように言いたい理由はわかります。しかし、救いのない辛い話だから私は『宝石の国』を傑作だと思っているわけではありません。こうした意見を見かけるたびに私は「『宝石の国』はただ過酷で悲惨なだけの話ではない。この漫画の面白いところ、スゴいところはもっと別にあるだろう!」と心のなかで叫んできました。多数派の意見に対する反論はすぐに袋叩きに遭うリスクがある恐ろしい世の中ですからね。可能なかぎり口をつぐんでいることが、いつからかネットの最適解となってしまいました。

今回は、その安全地帯から足を踏み出して「辛いだけじゃない『宝石の国』の面白いところ」について(炎上に怯えながら)語っていきたいと思います。




私が『宝石の国』を好きな理由、それを一言であらわすなら……

絶望とユーモアの絶妙な共存

です。
(「絶望」と「絶妙」でじゃっかん韻を踏んでしまった……)

『宝石の国』では、多くの読者が辛い展開だと感じる5,6巻(だいたいアニメ1期の終盤)以降も、ギャグ描写が無くなることはありません。どんなに悲痛な展開でもユーモアを忘れません。いや「忘れない」程度にギャグを入れているというよりも、むしろ『宝石の国』の物語の根底にはユーモアが絶えず流れている、と言ったほうが正しいと私は思っています。こんなことを口に出したら多くのファンから怒られそうですが、『宝石の国』はコメディである と言ってしまっても間違いではないとすら考えます。

7巻以降で私が笑ったシーンをいくつか抜粋して引用します。


「もうその辺で勘弁して……昔の僕 ただの痛々しい無秩序大バカヤロウじゃん 今の知的な僕には耐えられない」7巻 p.104

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ラピスの頭部を接合した状態での百年間の眠りから醒めたフォスが、ナメクジに呑み込まれたりそのナメクジと喋ったり海で両脚を失くしたり……といった百年前の自分の破天荒な振る舞いを聞かされて思わず口に出てしまった言葉。頭を貰ったことでラピスの聡明さが引き継がれていることを示すシーンでもありますが、「今の知的な僕」というナルシストめいた言い回しには、自信だけはやたらにあった以前のフォス要素も感じられ、バカと知性が同居したようなアンビバレンスが可笑しいです。「いまさら……」というルチル(後ろ姿)の控えめなツッコミもいい味出してますね。思わず口から漏れちゃったんだろうな……と推察できます。

更に深読みすれば、ここでフォス本人が「ただの痛々しい無秩序大バカヤロウ」だと言った"初期のフォス"に多くの読者はいちばん愛着を感じている、というメタな文脈を踏まえるとより一層このシーンの面白さ・秀逸さは際立ちます。読者らが抱いている「あの頃の無垢なフォスに戻ってほしい」という願いを、当の本人が一笑に付しているわけです。しかも、「当の本人」と言いつつ、頭部が別人に置き換わっているのだから、原理主義的なファンの「今のお前はフォスじゃない!あの頃のフォスこそが"本物"だ!」という反論もナシではないんですよ。だからこそ面白いんです。このように多様で豊かな意味が見出だせる点で、ここは本作でも屈指のギャグシーンだと思っています。



ボルツ-セミ戦での「ふわ・・・♡」 8巻 p.110

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ここ!!!最初に読んでて気付いたときはめちゃくちゃ笑いました。大好きな1コマ。宝石にも月人にも性別はありません。『宝石の国』には(というか市川春子作品には)我々のもつセクシュアリティ・ジェンダーなどの価値観とは少しズレた、容易に消費できない類のキャラクターが登場し、そのズレを効果的に使ったギャグ描写がとても多いです。(もちろんギャグ以外にも効果的に使いまくってます)

ここで戦っているボルツとセミはどちらも、人間であるわれわれ読者からすれば「男っぽさ」が感じられるキャラクターです。戦うのが好きで目つきの鋭いボルツが艶めかしい/可愛らしい衣服を着ていることから感じられる倒錯的な魅力については多くの読者が同意するところでしょう。ここではさらにゴツい体型のセミ(しかも地上に降りて息を止めているため顔が鬼のような形相になっている)の股の下をボルツが通り抜けるときにセミのスカート?の裾が舞い上がる様子を描いています。その効果音が、ギリギリ可読な「ふわ・・・♡」って天才だと思いませんか!?そもそもここは非常にシリアスな戦闘シーンなんです。見た瞬間どう反応していいのか戸惑ってしまいますが、その一瞬ののちに「やっぱりここはギャグだよな」と頭の整理がついて吹き出す感じ。

先ほどの「今の知的な僕には耐えられない」もそうですが、何も考えずに見た瞬間に爆笑できるというよりは、一瞬「これ笑っていいのか……?」と考えてしまうような、ブラックジョークとも少し違った繊細なギャグ描写が『宝石の国』の特徴であり魅力だと思います。ですから、私が挙げたシーンで全然笑えなかったり、そもそもここをギャグシーンだとみなすのは間違っている!と思ったりする方がいてもおかしくありません。そうした人の存在こそが、『宝石の国』は一風変わった硬度な……じゃなかった、高度なコメディであるとする私の考えを補強してくれます。


「全くわからんエクメアのどこがいいのかしら」「顔じゃん?」「顔だけで中身やべーだろあいつ」「おまえが言うな」 9巻 p.164

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ここの会話劇も秀逸〜〜〜〜〜!イエローお兄様そんなキレのあるツッコミできたんですか……!(失礼)
なにが面白いって、まず「エクメアの顔がいい」ってのはフォスも含めた共通見解なところですよね。そこは認めるんだ……いやたしかにあいつの顔はいいけれども

『宝石の国』はわれわれ人間とは異なる価値観をもったキャラクターを描くことに面白さがある、と言いましたが、何もかもが人間とは違うわけではないところがミソです。「エクメアの顔はいい」のような、われわれにも共感・理解可能な要素とそうでない要素の両方が混在しており、その混在のさせ方が天才的なんですよ。(そして、この「混在」というのは、はじめに言った絶望とユーモアの「共存」にも繋がる話です。)



さて、7・8・9巻からそれぞれひとつずつ、私が思う「秀逸なギャグシーン」を紹介してきました。前述の通り、これらをそもそもギャグシーンだと認めない人も当然いると思います。そして、これらをギャグシーンだと認めはするけれど、だからといって『宝石の国』という作品の全体がギャグだとかユーモアだとかコメディだとか表現するのは間違っている!と主張する人もいると思います。
(※ここで私はギャグ、ユーモア、コメディの細かな違いは一切気にせず、同じような意味合いで用いています。厳密に言えば違うのでしょうが、「シリアス」の対義語としてふわっと使っているに過ぎません。ご了承ください。)

ここからは、そんな「ちょっとギャグシーンがあるくらいで『宝石の国』の辛さ・地獄さは覆せない」という意見について私の見解を述べていきます。



フォスはツラい"だけ"なのか

「『宝石の国』は辛い展開だ」というとき、ほとんどの場合それは「主人公であるフォスにとって辛い展開だ」ということでしょう。月へ行き、月人の全貌が明らかになって以降は特に、フォスにとっては事がちっとも思うように運ばない悲惨な状況です。そして、他の宝石たちにとってはむしろ幸せな状況である、という風に「フォスとそれ以外」を徹底的に断絶させるような展開が続いています。「皆で一緒に鬱展開」ならまだマシなものの、「主人公ただ1人が鬱展開」だからこそ余計に悲惨である。こうした見方は多くの読者の共通認識だと言ってしまって問題ないでしょう。

私もこのような見方に異論はありません(なにせ私が考えて書いたのですから)。フォスは物語が進むほど可哀想なことになっているのは明らかです。しかし、果たしてフォスはツラい"だけ"でしょうか。私はそうは思いません。先ほど挙げた7巻と9巻の私的ギャグシーンにはフォスが登場しています。仲間の宝石たちとユーモア溢れるやり取りを交わしています。「ユーモア溢れる」というのは読者である私から見て、ということですが、しかしこれらの会話を見るに、仲間たちと気楽にツッコミ合うことができるくらいには良好な関係を保っている、と言えるでしょう。こうしたやり取りをしている最中のフォスはそれほど悲痛そうには見えません。

これに対して多くの読者(と私が勝手に考える藁人形)からは「本当はフォスの胸中はずっとグチャグチャでもがき苦しんでいるはずだ!これらのシーンでは何とか明るく振る舞っているに過ぎない」的な反応が容易に予想されます。しかし私はこうした反論には違和感を覚えます。「本当は」ずっと辛いって、何を根拠に言っているのでしょうか。フォスに際限ない苦しみを背負わせているのは、作者である市川先生ではなく「本当は」あなたじゃないんですか。「フォスは本当はずっと苦しみ悲しんでいる」のであってほしいと、あなたが願っているだけではありませんか。

・・・少し強い物言いになってしまったことを反省します。しかしここは私の意見の核心であり、そして『宝石の国』という作品の核心でもあると考えているため、より丁寧に説明することを試みようと思います。


まず、より厳しい状況になっている10巻のあるシーンを紹介させてください。

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市川春子『宝石の国』10巻 pp.130-132 より

退路を断たれ、たった1人で地球へ帰還して仲間や金剛を説得しに行くことを選んだフォス。「だいじょうぶ きっとうまくいく だって 先生はいつでも僕に優しい」と、無垢だったあの頃を思い返し、ひとり涙を流してしまいます。76話のこの最後のページはとてつもなく悲痛です。フォスにとっても読者にとっても悲痛なシーンであると読んでもらえるように作者が「意図」して描いたことはほぼ明らかです。ここのシーンだけを切り取って「めっちゃ悲しい……はぁーつら。。。」とこぼすのであれば、私も同意できます。私だってここを読んだときはそう思いました。

しかし問題なのが次のページの77話冒頭です。悲しみの海に沈んでいたフォスは一転して月人から渡された「ヒマつぶし用の犬を集めるゲーム」に夢中になっています。もはや前ページでの落ち込みようは見る影もありません。

私は、ここの130ページと131ページの見開きで隣り合った対比こそが『宝石の国』の本質であり、本作が傑作たるゆえんだと思っています。これぞ「絶望とユーモアの絶妙な共存」です。

『宝石の国』を、ひたすらに辛いだけの作品であると考えている人にとって、ここの見開きページはたいへんに「都合が悪い」のではないでしょうか。じっさい、ひたすらに辛いだけの作品にしたいのであれば、辛さMAXの131ページ目の次にこの132ページ目の展開は持ってくるはずがありません。それでは「鬱展開の度合い」が薄まってしまうからです。フォスにはとにかくずっと辛い胸中であると見なしている(願っている)読者からすれば、ここでフォスが「ヒマつぶしの犬集めゲーム」に興じている描写は端的に言って「邪魔」以外の何物でもありません。

もしかしたらこのように反論するかもしれません。「フォスがずっと悲しみの海に沈んでいることは間違いない。ここではその悲しみを紛らわすためにゲームに逃避しているんだ」と。たしかにそう解釈する余地はあります。しかし、それはやはり「フォスには悲しんでいてほしい」という願いからくる恣意的な解釈であって、漫画に描かれていることをフラットに、より中立的に見るのであれば「フォスは昔を思い出してめっちゃ悲しんだけど、しばらく経ったらゲームを夢中で楽しんだ」という解釈(というよりほぼそのまんまですが)が最も妥当だと思います。

なぜ読者は「フォスには悲しんでいてほしい」と心の底で願い、そのように読んでしまうのでしょうか。それは「そうしないと『宝石の国』のどのキャラにも共感できなくなってしまうから」だと考えます。

『宝石の国』で描かれる宝石たちは、われわれ読者と同じ人間ではありません。しかし、そんな「人間ではないもの」を描いた本作をわれわれ人間が楽しんで読めるのはなぜでしょうか。それは「人間ではない」宝石たちのなかに「人間らしさ」を見出しているからです。つまり「感情移入」や「共感」をしているからです。

これは『宝石の国』に限らず、あらゆるフィクション作品にも言えることかもしれません。(断言するとまた面倒くさいことになるのでやめておく)
わたしたちが宝石たちに魅力を感じるのは、多かれ少なかれ共感したり感情移入したりできるからです。もちろんそれ以外の魅力の感じ方も存在します。単純に外見が美しい・可愛い・カッコいいと感じたり、ネプちーの「意味のわからないところ」が好き、だったり。それでもこうした愛で方と同様に、共感や感情移入を通してキャラクターを愛でるやり方だって無視できるものではないでしょう。

そして、この「共感・感情移入」を軸に『宝石の国』という作品を読んでいくと、物語が進むごとに、どんどん共感できるキャラクターが少なくなっていく、という傾向が大まかには見出だせると思います。その代表例が"元"カンゴームたる姫だったり、ダイヤだったり、ボルツだったり、シンシャだったり……。

そして、「宝石は人間ではない」というこの作品の基本的な設定を踏まえて考えれば、共感・感情移入が比較的容易にできた序盤が不自然なのであって、人間ではないんだから共感しづらいのは当たり前、そのほうが自然である、と考えることができます。

※メタにこの「序盤は感情移入ができた傾向」の理由を考えるのであれば、そもそも『宝石の国』は商業作品であるため、人気が出なければ打ち切られてしまうことからの要請だと見なせます。(人気とは、"人間からの"支持に他なりません)

※「宝石は人間ではない」と言っても、厳密に言えば、宝石・アドミラビリス族・月人は「にんげん」が骨・肉・魂の3つに分かれた存在であり、雑にいえば1/3は"にんげん"の要素を残しています。この設定は、さっきの「何もかも人間と違うわけではない」論の補強には都合がいいですね。


さて、「なぜ多くの読者はフォスにずっと辛い心境でいてほしいと願ってしまうのか」および「なぜ多くの読者は『宝石の国』を地獄のような辛い展開だと見なしてしまうのか」という疑問への答えが見えてきました。

一言でいってしまえば、それは「読者が人間だから」です。『宝石の国』というフィクションを楽しむために、人間ではない宝石たちのなかに人間らしさを見出していた読者(にんげん)たちが、いよいよその全貌・本性を表した物語および宝石たちについていけなくなっているのが現状です。

それでも、主人公だけは、フォスだけはまだギリギリ感情移入が可能な最後の砦です。フォスが過酷な運命の中で儚い一筋の光に縋り付くのと同様に、読者もまたこの物語の過酷な展開の中でフォスという最後の希望に縋り付いているのです。

※ここでの「過酷な展開」とは、フォスにとって過酷な展開という意味ではなく、(共感できるキャラを求める)読者にとって過酷な展開という意味です。ここまでの文章の真意がちゃんと伝わっていれば誤解はされないはずですが、念の為。


われわれ人間からすれば、あんなに悲惨な展開の1ページ後に(じっさい作中でどれくらい時間経過があったのかは不明ですが、ここがぼかされているのは作者の力量を感じます)、ヒマつぶしのゲームをフォスが心から楽しんでいるなんてあり得ない!と思うことは自然です。しかし、フォスは人間ではなく宝石です。われわれ人間の常識や価値観が宝石にまで通用すると無根拠にも考えるのは「傲慢」ではないでしょうか。フォスという虚構のキャラクターの実在性、自律性、尊厳を最大まで尊重するのであれば、われわれ読者にできることは「フォスを人間の価値観の枠に当てはめて解釈することをできるかぎり避ける」ことだと思います。

ただし「人間の価値観に当てはめない」ことを完璧にやり遂げることはゼッタイに不可能です。フィクションの受容には原理的にこうした「傲慢さ」を伴うからです。仮にこのような傲慢さを極限まで漂白した「謙虚な」受容態度を空想するとしたら、たとえば漫画であればただの線や点の集まりとみなすような、およそ非現実的な受容態度しかありません、多分。(ここらへんは深入りすると真面目に芸術批評を学ばないといけないので濁す)

『宝石の国』は、この「フィクションの受容に伴う原理的な傲慢さ」を意識せざるを得なくなる作品だと考えています。なぜなら、私が『宝石の国』を読んで「宝石たちに感情移入できる存在でいてほしい」と願う自分の傲慢さに気付かされたからです。

この傲慢さは決して「悪い」のでも「間違っている」のでもありません。そのような価値判断は本作ではなされないし、そもそもどんな創作を鑑賞するにも、この「傲慢さ」はついてまわるのですから。『宝石の国』はただ、われわれ読者にその傲慢さの存在を「気付かせる」だけです。あとは私たち一人ひとりが、自身の中にあるそれに向き合っていくしかありません。そこに答えも正解もありません。ただ「気付かせてくれた」という点で、私は『宝石の国』は素晴らしい作品だと思っているし、『宝石の国』が大好きです。




以上の文章は、10巻までを読んだ段階での考えです。




② 11巻を読んでの感想など

色んな意味で「うわ〜〜〜」って展開でした。まず、前巻までとは違いフォスがほぼ完全に闇落ちというか、復讐の鬼になってしまったため、全体のトーンを指して「コメディ」と呼ぶことは非常に難しくなったと私でも思います。しかしギャグシーンが皆無だったかといえば、そんなことはありません。

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市川春子『宝石の国』11巻 p.135

よりにもよってフォス自身がまだギャグ描写に体を張っています。こんな見た目になってまでギャグ顔を決めてくるフォス(及び市川先生)、おそろしいです……。例によって「こんなのギャグシーンではない!」派閥もあるとは思いますが、最後のコマのフォスの顔、明らかにギャグ性を「意図」されているようには見えませんか?フォス自身は復讐のことしか考えておらず「チッ、ハズレか……」と大真面目に思っていそうなところが面白ポイントです。



11巻の最大の見所は、ダイヤ-ボルツの因縁の対決でしょう。ずっとペアを組み互いを想い合っていた2人が運命の因果にもてあそばれて刃を交える……めちゃくちゃ王道の少年マンガ的展開じゃん!ダイヤの「あなたの一番得意なことであなたに勝ちたいの」とか激アツ激エモすぎる……とテンションが上がっていたのも束の間

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市川春子『宝石の国』11巻 p.143

コレですよ、コレ。『宝石の国』は少年マンガではありません。これだからこの漫画は恐ろしく、素晴らしいんです。ボルツが短髪にイメチェンしているのも「こう使ってくるか〜〜〜」って感じで細かなギミックまで完璧すぎる。

普通の漫画だったら「かつて深い仲だった2人の因縁の対決」は、出来るかぎり悲壮感を漂わせ、激しく、痛切に演出するでしょう。それが少年マンガの正解です。しかし『宝石の国』ではどう描くのか。

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市川春子『宝石の国』11巻 pp.145-146

コレですよ、コレ。(2回目)作者は天才か〜〜〜!?

この146ページ目のボルツとダイヤの対比、これも『宝石の国』の「絶望とユーモアの共存」を象徴する一コマだと思います。正直なところ、どう受け取っていいのかよくわからないんですよね。えっ、これシリアスで悲壮感あふれるシーン?でもこんなにポップな感じなんだけど……と。

普通の「人間向け」の作品では、「このシーンは感動的なシーンだから感動するのが正解だな」とか「このシーンはカッコよくて熱いシーンだから『カッコいい〜』『熱い〜〜』と思うのが正しいんだよな」などと、シーンの正しい受容態度がすぐに判断できます。このわかりやすさ、親切さはエンタメ性と直結しています。あらゆるページの意図が読者には理解できない漫画なんて、少なくとも商業的に生き残れるとは思えませんから。(いわゆる「不条理ギャグ」漫画も、読者と作者の間に「これは不条理ギャグである」という共通認識があるから面白がれるんです。ここでは、その共通認識が全く存在しない作品を想定しています)

『宝石の国』では、このダイヤ-ボルツ戦や、ギャグシーンで挙げたセミ-ボルツ戦のように、「正しい」受容態度が容易には判断できないシーンがたびたび登場します。そもそも唯一絶対に正解の受容態度なんてどんな作品のどんなシーンにも無いハズですが、この作品はやはりそのプリミティヴな事実の自覚を促しているように思えます。「どういう意図で描かれているのかわからないシーン」と「感情移入しにくい宝石たちキャラクター」はこの意味でパラレルです。

このバトルなどを見るに、やっぱり『宝石の国』を単なる辛い地獄のような作品として読むのはもったいないな、と感じます。


最後にもう一つだけ、これには触れておかなければなりません。

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市川春子『宝石の国』11巻 p.184

ここでも、違う意味で「うわ〜〜〜」ってなりました。「最も人間的な感情は復讐だ」から始まるエクメアの発言は、金剛を正常に稼働させられる存在にするためにフォスを"人間"へと仕立て上げる壮大な企図を明らかにします。
(・・・あれれ、こういう「主人公のこれまでの経歴はすべて手のひらの上だった!」的展開、ある1つの漫画で2度ほど見覚えがあるぞ?……こんど最終章がアニメ化する作品なんですが)

「あの子は立派な人間に育ったよ」って、THE・いかにもって感じです。「フォスは人間でなく宝石です」と先ほど書きましたが、こうも明確に作中でこういうことを言われちゃうと解釈に都合が良すぎる。あまりにも都合が良すぎる場合、逆に解釈をする気が失せてしまうんですよね……(天邪鬼なので)
そういう意味の「うわ〜〜〜」です。

物語を畳みにきてるのは明らかですが、あまりにも解釈が出来すぎてしまうこの展開に落胆ばかりしているのは流石にもったいないので、もう少しメタにとらえる、私の常套手段を使いましょう。

「宝石」:われわれ読者にとって理解しにくい
「人間」:われわれ読者にとって理解しやすい

という(稚拙な)対応関係を設定すると、これまで意図の受容が困難だった『宝石の国』が、この終盤にきて「いかにも」な解釈のしやすい展開になっているという事実。これが、度重なる変化の末に宝石から人間へとたどり着いた、本作の主人公フォスフォフィライトの軌跡と見事にオーバーラップ(符号)している、と考えることが出来ます。作品と作中の主人公の辿ってきた経歴が「読者の理解(=共感)しやすさ」という次元で結びついている、というわけですね。この考えでいくと「あの子には人間を超えてもらう」「ここからが本番 と言ったら信じる?」というエクメアの台詞も解釈し放題バーゲンセールです。

……まぁ、だから何(So what)?って感じなんですが。こうしたメタな読みは正直いってどんな作品でもやろうと思えば可能なので、そんなに面白くはないです……でも現状で私が思いつく最新巻の展開の楽しみ方はこのくらいです。



さて、ここまで長々と「宝石の国はコメディである」という私の考えを(偉そうに)語ってきました。

「多くの読者」が「この作品をただ辛いだけの地獄のような作品」だととらえている、という仮定のもとに論を展開してきましたが、言ってしまえばこんなの何の根拠もない、典型的な藁人形論法(批判するのに都合の良い意見を持ち出して、自分の意見を妥当そうに見せること)です。じっさいのところ、私のように、いや私なんかよりもよっぽど豊かで面白い読みをしている『宝石の国』読者はたくさんいるでしょう。ただ私が探していないだけです。

ただその一方で、SNS上で「『宝石の国』は地獄のボジョレ・ヌーヴォー」的な発言が定期的に拡散されているのもまた事実です。(証拠ツイートを挙げたりはしませんが)こうした発言が拡散されている現状については、作品論とはまた別で少し思うところがあるため、気が向けばまたnoteを書かせていただきます。そのときはどうか叩かないでください……(クソ雑魚メンタルオタク)


追記P.S. 
電子書籍で購入しているため、ヤバいと噂の特装版の特典とかは全く読んでいません。こないだの『僕ヤバ』といい、電子につかない特典はホントやめてほしい……「紙で買っているのが本当のファン」みたいな価値観はさすがに時代錯誤じゃないですかね?お金なら出すから……という気持ちが強いです。「漫画本編に描かれていることが全てだ!作品外から文脈やらを持ち込むのはズルい!」と言いたい思いもありますが、単なる僻み(あるいは駄々こね)でしかないのでやめておきます。

それでは。





『宝石の国』アフタヌーン公式サイト


Kindleでは1・2巻が無料




『宝石の国』とはまた違った魅力をもつ、大好きな漫画10作について語りました。


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