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noteを書きたくないということを書く

日に日に自分のことが分かっていく。
そうするとどんどん分からなくなっていく。

私はどうすればいいのか分からなくなっていく。

今日はとにかくnoteを書きたくなかった。
何を書けばいいのか分からなかった。

何を書いたってどうせ面白くない。空っぽの文章が出来上がるだけだ。

頭の中はそれでいっぱいだった。
そうやってひとつのことに囚われたら最後。しばらくは他のことなど考えられない。
私の頭はそういう仕組みになっている。

だから、noteを書きたくないと思ったら、書きたくないことだけしか考えられない。
なぜ書きたくないのか。
いつから書きたくないのか。
どうすれば書けるようになるのか。
私の思考の限界はここだ。
きっと絶対に考えるべきことはもっとある。だけど、私の頭はその扉を見つけてくれない。

じゃあ、それを逆手に取ってやろう。

そう思ったのは、noteの執筆を先延ばしにして半日が経った頃だった。

書きたくないということを書けばnoteは完成する。
書きたくない理由を考えれば思考することの練習になる。
見つけられる扉すらも開かなかったら、その先の扉は決して見つからない。

なぜ書きたくないのだろう。
それは分からないからだ。中身のある文章の作り方が分からないからだ。
柔軟に多角的に俯瞰で物事を見られたらいい。そんなことは分かっている。
だけど、私にはその方法が分からない。辞書で引いた言葉の意味しか理解できない。
それがもどかしくて悔しくて、脳みそが今にもショートしそうで、叫び散らして泣き喚きたくなる。
なぜ書きたくないのか、その理由はもっとあるはずなのに、もっとあるはずだって分かっているのに、それが何なのか分からない。脳みそを取り出して、探し物でもするようにその中身を調べられたらいいのに。

なぜ中身のある文章を書きたいのだろう。
評価されたいから?もちろんある。労働に見合った対価を欲するのが人間だ。頑張った分だけ褒めて欲しい。そう思っているということは、noteを書くことを頑張ってしまっているんだな。頑張らないと出来ないことだと思い込んでしまっている。
憧れるから?確かに、おすすめに表示されるような記事は、たとえ1,000文字に満たない記事でもその何十、何百倍もの気付きや感動を与えてくれる。そんな言葉たちに救われて、感化されて、憧れている。
成長を感じたいから?これじゃないだろうか。地道に続けてきたことの結果が一辺倒では無駄に思えてしまう。少しでもいいから変化している実感が欲しい。しかし今のところ、その実感はあまりない。

いつから書きたくないのだろう。
自分のことが分かりはじめてからだ。
ADHDという診断を貰ってから2年近くが経過するが、最近になってようやくそれを認識できるようになってきた。認められるようになってきたという方が正しいかもしれない。
ADHDの特徴や情報を調べると、人から指摘されたことや自分の身の回りのことで心当たりが次々と出てくる。半年前に読んだADHD関連書籍の付箋は倍に増えた。
それを憂う気持ちはない。ただ、改善したい気持ちが強くて空回っている感じがする。改善しようと思って始めたnoteで早速躓いているんだから言うまでもない。

なぜ自分のことが分かるようになってきたのだろう。
人からの指摘が一番大きいところだけれど、その指摘を改善するために今までしてこなかったことを始めたからではないだろうか。自分の思考をアウトプットすること、出来ることと出来ないことを見分けること、違和感に目を向けること、人と関わること。
他人に興味がないのと同じで、自分にすら興味がなかったんだと気付いた。
それからというもの、他人に興味を持つことは相変わらず苦手だけれど、自分自身に目を向けることは出来るようになってきている。

どうすれば書けるようになるのだろう。
分からないことを分からないと言えばいいんだ。
分からないと言えなかった理由は負けず嫌いだからだと思っていた。もちろんそれは否定しないけれど、それだけじゃないとも思う。
分からないことが分かっていなかった。自分が思考していることが全てで、それ以外に検討の余地なんてないと思い込んでいた。そんなはずないのに。
だって、noteを見ただけでも、ごまんと思考が転がっている。その中身は同じテーマでも皆違う。十人十色の経験や思いや考え方がそこに広がっている。

皆どうしてそんなに書くことがあるのだろう。
日記やブログを始めてもいつも三日坊主だった。ルーティーンのような毎日には記録に残す出来事など起きていないと思っていたから。
だけど、そんなはずなかった。食べるもの、着る服、自分の気持ちは毎日違うし、関わる人が同じでも話すことは同じじゃない。
毎日丁寧に記事が書ける人は、そういう機微に気付いて、その中で分からないことにも気づいて、そしてそれを追求出来る人なんだ。些細な物事、関わった人、自分の感情、そういうものに疑問を持って解決しようとしてるんだ。
そんな当たり前のことに気付くまで20数年かかってしまった。でも気付けないよりずっといい。

さて、だらだらと書き殴ってきたこの文章に中身があったかどうかは分からない。
だけど、自分の思考の現状を把握するのには一役買ったんじゃないかと思う。

開いた扉の数は初めより少し増えた気がするな。

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