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小説 『余命10年』~「ひとりぽっち」から感じること

人は必ず死ぬ、その過程はそれぞれ違うもの。
2007年に上梓され、2017年に加筆・再販されたこの小説には、再販の直前に病死した作者・小坂流加さんの最期の遺志が記されています。
それが特に表れているのが物語の終盤第21章で、病室で死へと近づいていく主人公・茉莉の内面を通して切実に伝わってきます。
私はこの章を読んで、死の一つのかたちを教えられました。
そしてそこには、あの歌が流れていました。

そのあとまた体調を崩し入院した先で、わたしはかつてない発作に見舞われた。
~中略~
当たり前だけど前もって知らされていなかった『死』へ引き渡されていく感覚に、わたしは激しく動揺した。
医師たちの適切な処置で、何とか踏みとどまることができたけれど、あれは間違いなく『死』だった。
今でも引きずり込まれるときのあの力強い感触がよみがえると鳥肌が立つ。
なんとしてでも逃げなきゃと掴んだ医師の白衣の感触もまだ覚えている。
怖かった。
『死』は想像の何百倍も怖いものだった。
でも確実にまたあの瞬間は訪れる。
次はもう、掴まれないかもしれない。
あらがえないかもしれない。
でもあの恐怖を受け入れない限り、わたしの今も終わらない。
人間らしく生きているとはとても言えない今の生活を終えるには、もう一度あの瞬間にきてもらわないといけないのだ。

P.288

臨死体験をした者にしかわからない感覚、肌身に感じた恐怖が伝わってきます。
必ずやってくる死の瞬間が、本当に怖いものであるということを知ってしまった上で、それでもまだ生きていなければならない茉莉の静かな叫び声が聞こえてきます。

わたしも何か作りたい。
そう思うのだけど、もうずっと針と糸に触れていない。
好きなものを失うって寂しいけれど、意外と冷静に受け止めることができている。
だっていつの間にか、針や糸に重さを感じるようになっていて、長い時間手を動かす力と集中できる根気がなくなっていた。
だから、やれなくなってしまったという悲痛さは感じていない。
またひとつ大切なものを心に埋めていく。
心の割と治安のいい場所には墓標が幾つも立っている。
かつて好きだったこと。
いま失ったこと。
手放すのではなく心に静かに埋めていく。
この先きっと、立ち上がるとか、ひとりでトイレにいけるとか、音楽を聴いて過ごすとか、新発売のお菓子が気になるとか、そんなささやかな日常の墓標が立っていくのだろう。
~中略~
家族のために生きたいと思えた頃もあったけど、今はもうその意志を貫く力がないの。
誰かの笑顔より苦痛の方が上回ってしまったから。
生きてあげたい、その思いやりもすでに心の墓標の下にある。

P.293

茉莉は入院前に、夢だった親友のウエディングドレスを作ること、そして自作の漫画を出版することを叶えますが、その上でこの境地に至るというのは、気力だけでは成し得ないことがあるという病魔の現実と、それに対する諦念が伺えます。
多くの人は年齢を重ねながら、時間を掛けて、今までできていたことができなくなっていくことに折り合いをつけるものですが、まだできるはずだと思える若さにある中、普通のことができなくなるという喪失感は計り知れません。
それを茉莉は、「心の割と治安のいい場所に埋めていく」という表現で、つとめて静かに、変わってゆく自身を見つめています。

茉莉は病室で一つずつ何かを諦めていきますが、ただここでわかるのは、作者の小坂さんはこの小説を最期まで諦めなかったということです。
力の入らない指でキーボードを打っていたのかもしれない。
力の入らない声で伝えたのかもしれない。
そんな姿を想像すると、今こうしてこの第21章を読めるのは彼女が諦めなかったからであり、どうしても書き遺したかったという執念を私は感じます。

和人との記憶に浸りながらぼんやりと考える。
わたしは後悔しているのだろうか。
していないと言えばウソ。
けれど、今ここにいてほしいかと問われれば、やっぱりいなくてよかったと思ってしまう。
痩せ衰えて色も影も失っていくような今の自分をみせるのはどうしてもいや。
しあわせすぎれば死ぬことは必要以上に怖くなるし、死で別れるのも辛すぎていや。
そうしたらやっぱりあの選択しかなかった。
結局は、和人のためのように見せかけておいて狡猾な自分のためだった。
自分の辛さを半減するための別れだった。
後悔ではないけれど正解でもない。
でも、人生はそういう選択と答えの積み重ねでできていく。
そうやって折り合いをつけてなんとか踏ん張ってきたけれど、
だけどやっぱり。
心をさらしていいのなら、やっぱり。
やっぱり、寂しいよ。
すごくすごく寂しいよ。
ひとりぽっちはやっぱり寂しいよ。
手を握っていてほしい夜はあるし、抱きしめてほしい心細さだらけだし、しあわせだけに包まれて死ぬことができたらどんなにいいだろうと思うよ。
死ぬことだって本当はいやだよ。
逃げられるものなら逃げたいよ。
もう一度外を歩きたい。
空の下を軽やかに自由にこの2本の足で気の向くままに無敵の自分で季節の息吹を思い切り吸いこみたいよ。
桜の花びらを追いかけて、新緑の木漏れ日を見上げて、落ち葉のじゅうたんをさくさく言わせながら、純白の雪を両手で受け止めたい。
その隣に和人がいたら、あの笑顔があったなら他のどんなしあわせも敵わない――。
「会いたいよ……、会いたいよ、和人……」
オーバーテーブルの上から2匹の犬のあみぐるみだけが見ていた。
結局誰にも告げなかった本心のわたし。

P.307

茉莉は最期の瞬間、恋人だった和人への想いと、自身の本心を確かめます。
これは作者が、自身の最期の瞬間に、自分は何を思うのかという想像を重ね合わせることができます。
孤独を選んだけれども、それはやっぱり寂しい。
それを「ひとりぽっち」という言葉で表現します。
濁点の「ひとりぼっち」ではなく、半濁点の「ひとりぽっち」。
この言葉を聞くと、私はあの歌を思い出します。

上を向いて歩う
涙がこぼれないように
思い出す 春の日
一人ぽっちの夜

上を向いて歩こう
にじんだ星をかぞえて
思い出す 夏の日
一人ぽっちの夜
幸せは 雲の上に
幸せは 空の上に
上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
泣きながら 歩く
一人ぽっちの夜

思い出す 秋の日
一人ぽっちの夜
悲しみは星のかげに
悲しみは月のかげに
上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
泣きながら 歩く
一人ぽっちの夜
一人ぽっちの夜

坂本九『上を向いて歩こう』

この物語の中で、茉莉は何度も涙をこらえ、笑っていようとします。
ひとりぽっちの夜を何度も越えて、笑っていようとします。
茉莉を通して、小坂さんがありたかった姿が見えてきます。
最終章の第22章で、茉莉の親友が彼女のことを語りますが、それが作者の願望だったとしても、きっと作者自身も、最期まで周りに気を遣える優しい人だったのではないでしょうか。

この本が作者の死によって注目されていることは事実だと思いますが、作者の最後の孝行として、私はこの小説を肯定したいと思います。
本が売れるということは、家族や親しい人へのためになるということです。
小説という形をとることで、時代やジャンルを越えて、たくさんの人に届くかもしれない。
家族のために生きようと思っていた茉莉のように、小坂さんもそう願って、最期まで諦めずに、この小説を書き上げたのではないでしょうか。

人生の最期の瞬間、何を想うのか。
誰のことを想うのか。
想う誰かがいるような人生でありたい。
この小説を通して、私はそう思いました。
皆さんは人生の最期の瞬間、何を想いたいですか?

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