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【インタビュー】「この国にいさせてくれてありがとう」木原直子さんが"メキシカン着物"に込めた想いとは

今年7月、メキシコの民放テレビ局「TVアステカ」のスタジオに、艶やかな着物姿の女性がずらりと並んだ。東京オリンピック特集番組のキャスターたちだ。

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着物姿でカメラに笑顔を向ける「TVアステカ」のキャスターたち。(写真提供:木原直子)

彼女らの笑顔をより一層美しく際立たせているこの着物は、実はメキシコの伝統的な布からできている。作ったのはメキシコシティ在住の日本舞踊師範でファッションデザイナー・木原直子さんだ。彼女はなぜ、日本から1万km以上離れたここメキシコで、着物を作るのか。その想いを取材した。

ブラジルで生まれ、夢みたファッションデザイナー

直子さんは、日系移民2世としてブラジルで生まれた。ご両親は島根と福岡の出身で、ブラジルへと向かう戦後最後の移民船で出会い、結婚したのだという。

7人兄弟の次女として生まれた。幼い頃の暮らしを、「楽しい記憶ももちろんあるけれど、両親が苦労する姿もたくさん見て育った」と振り返る。母は娘たちが12、3歳になると、洋裁ぐらいは覚えてきなさい、と近所の裁縫教室へ通わせた。物心ついたときからおしゃれが大好きだったという直子さんは、嬉々としてこの教室に通ったという。「とにかく洋服を作るのが楽しくて。あの頃からもう、自分で作った服を着て歩いてましたから。将来はファッションデザイナーになるんだ、とずっと言っていました」

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ブラジルにてご兄弟と。左から2番目が直子さん。ピンクのワンピースはご自身で、下のご兄弟のドレスもお姉さんと一緒に直子さんが作ったもの。(写真提供:木原直子)

24歳で初めて日本を訪れた

直子さんは夢を叶えるため、ブラジルの美術大学に進み、そこでファッションの勉強をする。そして卒業後、24歳のときに、日系ブラジル人を対象とした日本への留学プログラムに応募した。行き先は島根県の短期大学だった。

「両親からは、島根はすごく田舎だよ、と繰り返し聞かされていました。行ってみたら確かに田舎だったんですが、自然が本当に美しくて感動しました。毎日田んぼのあぜ道を自転車で走りながら、風景を写真に撮ったり、絵に描いたりしました」

また留学中、東京へ行き歌舞伎を観る機会があった。ブラジルのラテンダンスとは180度異なるその世界観に、直子さんは大きな衝撃を受けたという。演者の動き、衣装や幕に使われる色、静寂の中に響き渡る音、そのすべてに心を奪われ、日本の伝統舞踊に憧れを抱くようになった。

運命の出会い、そして結婚を前に揺れた心

1年後、島根からブラジルへ戻った直子さんは、首都サンパウロでアパレルメーカーに就職する。世界のファッショントレンドをリサーチし、「ブック」と呼ばれる資料にまとめ、関係先に配布するのが担当の仕事だったという。

そこで3年働いたのち、直子さんはファッションデザイナーとしてステップアップするため、再び日本へ行くことを決めた。今度の留学先は、東京の文化服装学院。JICAが日系人を対象に実施した研修プログラムだった。自然豊かな島根とは違う都会の暮らしにも、すんなりと溶け込んだ。「わたし、どこへ行ってもその場所が大好きになるんです」と笑う。

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1番左が直子さん。文化服装学院では、1年に2度の学内ショーで自分の作品を披露するなど忙しくも充実した生活を送った。(写真提供:木原直子)

そしてこの2度目の日本留学中に、直子さんの運命を大きく変える出来事が起きた。ご主人の準さんとの出会いだ。準さんは同じJICAの研修生として、メキシコから東京医科歯科大学へと留学していた。2人は研修プログラムを通して知り合い、惹かれ合ってお付き合いを始めた。直子さんが28歳のときだった。

研修が終わり、それぞれの国に戻った直子さんと準さんは、ブラジルとメキシコでの遠距離恋愛を続けた。「結婚の話はしていました。でも迷いもありました。メキシコという国のことを何も知らなかったですし、ファッションデザイナーという自分のキャリアについてもとても悩みました」

そんな折、準さんがブラジルのカンポグランデMSという街にある直子さんの実家を訪ねてきた。結婚してメキシコに来てほしい、という想いをまっすぐに伝える彼の姿を見て、心の中の迷いが吹っ切れた気がしたという。それから、準さんと一緒にメキシコシティを訪れ、自らの目で街や人々を見たとき、ここで暮らす決心が固まった。

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ブラジルに戻り、姉妹で経営していたアクセサリーショップを手伝いながら、結婚に迷っていた頃。(写真提供:木原直子)

その後直子さんは1年かけて準備し、32歳でメキシコへと移住した。1年間は子どもを作らないと決め、スペイン語を猛勉強した。「両親は、移民としてブラジルに来た当初、言葉の面でずいぶん苦労したそうです。幼かったわたしの記憶にもその姿が焼き付いています。だから、異国で生きていくのなら、何よりもまずその国の言葉をきちんと身につけなくては、と思いました。」

スペイン語以外にも、メキシコに来て新しく始めたことがある。それは日本舞踊だ。実は準さんのお母さんは、日本舞踊の師範だった。「お義母さんの薦めで、日本舞踊を習い始めました。踊りは初めてでしたが、やってみたらすごく好きになりました。かつて観た歌舞伎もそうですが、日本の伝統舞踊の世界観が好きなんです」

結婚から1年後、長男を授かった。それから、子育てをしながら、義母が主催する日本舞踊団の公演で毎月のようにメキシコの地方を訪れるようになった。直子さんは当時を振り返って、どの街でも本当に温かく迎えてもらった、と話す。この国は、なんて外国人に対して開かれた心を持っているんだろう。そんな驚きとともに、メキシコがどんどん好きになっていった。

気がつけば、メキシコに来てから10年の月日が流れていた。

2つの文化が溶け合って生まれた着物

こうして各地を飛び回っていた直子さんは、その先々で美しい伝統工芸品に出会った。中でも惹かれたのは、各地方の個性豊かな布だ。

メキシコ政府の公式HPによれば、メキシコ国内には先住民族が暮らす村が70も存在し、現在も全人口の約15%にあたる120万人がそこで生活している。多くの先住民族女性たちは織物や刺繍を仕事にしており、それぞれの共同体に受け継がれてきた独自の手法やデザインがある。直子さんは公演のたび、その地方独自のデザインのテーブルクロスやショールを買って帰るのが楽しみだった。

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メキシコシティのシウダデラ市場にて。メキシコ各地にこうした民芸品市場がある。(写真提供:木原直子)

そんなある日、ひとつのアイディアが浮かぶ。「メキシコの布で着物を作ってみたい、と思ったんです。実は日本舞踊団で、公演用の着物や羽織のデザインや縫製もやっていました。やっぱり服を作るのが好きなんです。そうやって家で着物を縫っていたら、ふとテーブルクロスが目に留まって、『この2つを掛け合わせたら面白いんじゃないか』と思いついたんです」

それから直子さんは、公演や育児の合間を縫って"メキシカン着物"を作るようになった。着物1枚分を縫えるほどの長さの布は、持っていない。各地で買い集めた安い端切れの布を組み合わせて、どうやったら素敵に見えるか考えながらデザインした。完成した着物を、飾って眺めるのが楽しかった。着物は次々とでき上がったが、家族以外に見せるつもりは全くなかったという。

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16世紀頃からミチョアカン地方で作られているCambaya(カンバヤ)という布。非常に安価で売られ、直子さんの着物にも使われている。(写真提供:木原直子)

しかし、あるイベントをきっかけに、直子さんの着物は注目を集めることになる。それは、2019年に行われた日墨友好記念公園の落成式典だった。2017年のメキシコ大地震で、日本は自衛隊を派遣し救援活動に参加した。そのことに感謝を表して作られたこの公園の落成式には、多くの関係者が招待され、直子さんらJICA元研修生も出席することになっていた。「日墨友好」という公園の趣旨に、あの”メキシカン着物”ほどぴったりな衣装はない。家族からの薦めもあり、直子さんは式典でJICA元研修生の女性たちにあの着物を着てもらうことにした。

当日、太陽が燦々と降り注ぐなか、メキシコ各地の布で作られた艶やかな着物を着た女性たちが登場すると、参加者たちは皆、驚きの声を上げた。誰もが着物の美しさと、直子さんの素晴らしい発想を褒めてくれた。「みなさんの反応を見て、わたしが逆に驚いたんです。ひとつは、趣味で作っていたあの着物が、こんなに喜んでもらえることに。そして同時に、メキシコの優れた布文化が、この国の人たち自身からあまり評価されていないことにも驚きました」

ファッションショーに「メキシコへの感謝」を込めて

式典を終えた直子さんは、"メキシカン着物"のショーを開こうと決意する。メキシコの布文化が、もっと正しく評価されてほしい。布を作る職人たちの生活も、よくなってほしい。そのために、自分にできることがあるのなら喜んでやりたい、と思ったからだ。

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メキシコシティにある小さな布屋「Telas Típicas」にて。こうした昔からの布屋がなくなってほしくないと、この店の布でも着物を作り、ショーで披露した。(写真提供:木原直子)

着物ショーは、サン・アンヘルという街で開かれ、直子さんはメキシコの布を使った55枚の着物や羽織を披露した。ショーのタイトルは、"Dos culturas un lenguaje"。直訳すると、「2つの文化を1つの表現に」となるこのタイトルは、もちろんショーに登場する着物を指してつけられたものだが、直子さんはこれを自分自身にも重ねている。「わたしの中には、日本人の血が流れ、ブラジル、日本、メキシコそれぞれで培ったアイデンティティがあります。いくつもの文化が溶け合って、それがわたしというひとりの人間になっているんです」

また、直子さんはこのショーで一番表現したいことを、メキシコへの感謝だと語る。「かつて外国人としてブラジルからやってきたわたしを、メキシコの人たちは温かく受け入れてくれました。この国にいさせてくれてありがとう、そう思い続けてきました。だから今度は恩返しがしたくて、このショーをやったんです」

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チアパス地方のSuytic(スイティク)という先住民族村で女性たちが伝統的な技法で織物をする様子。JICAが2005年から4年間支援活動をした村でもあり、直子さんは彼女たちの作る布でも着物を作った。(写真提供:パウロ伊藤、木原直子)

日墨友好公園の落成式典で、メキシコ人記者が呟いた言葉が忘れられなかった。「こんな布は僕の家にもいくらだってあるのに、今までトルティーヤを包むぐらいにしか使ったことがなかった。こんなにも美しい布だったなんて、知らなかった」ーーあの彼と同じような感想を抱くひとりでも多くのメキシコ人に、この着物を通じて、メキシコの布文化の素晴らしさを伝えられたら。そう願いながら直子さんが開いたショーは、国内で大きな反響を呼んだ。

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サンアンヘルで開かれた着物ショー"Dos culturas un lenguaje"は、メキシコ国内メディアも絶賛し、大成功を収めた。(写真提供:木原直子)

世界中どこに行っても、必ず学ぶことがある

脚光を浴びた"メキシカン着物"は、さらに大きな舞台へと引き上げられていく。メキシコの民放テレビ局で、今夏最大のイベント・東京オリンピックを特集する番組の出演者衣装として採用されたのだ。

これまでの道のりを、直子さんはこう振り返る。

「わたしの人生は、決して計画的とは言えません。でも、行った先々で心を開いてその土地を愛し、そこで自分にできることを探しながら進むうちに、おのずと道が開けてきました。世界中どこに行ったとしても、必ずそこに学ぶことはありますから」

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どこへ行ったとしても、必ずそこに学びがある。謙虚な姿勢でいつづけたからこそ、直子さんはいまメキシコから愛されているのではないだろうか。彼女が作る唯一無二の着物は、これからますます輝きを増していくに違いない。

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