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瞬間の経営 〜 守るな、渇け!

人間の存在は瞬間のもの

 人間は生まれてからいままでずっと生きてきたと思っているが勘違いである。

 一瞬のうちに死に、一瞬のうちに生まれ直しているのだ。

 一瞬の「瞬」という漢字は目が入っているようにまばたきする時間のことで、スポーツ科学によれば150ミリ秒という。

 メジャーリーグのピッチャーがマウンドからボールを投げ、バッターのいるホームベースまで到達するまでの時間が400ミリ秒。眼球の後部にある網膜がボールという情報を受け取り、その情報がニューロン(神経細胞)をつなぐシナプスを数ミリ秒かけて通って、脳の一次視覚皮質に到達し、脳が信号を脊髄に送り筋肉を動かす命令をするのに200ミリ秒かかる。

 つまり、ピッチャーが指からボールを離してから打席にボールが到達するまで「ボールをよく見て」打つことは人間のハードウェアのスペック上、不可能なのだ。ボールがマウンドから打席の距離の半分に来たあとは目をつむっているのと同じなのである。メジャーリーグのバッターは、瞬の中で、バットを振りきり、勝負している。これはテニスプレーヤーも同じか、もっとすごい。野球のボールは時速160kmだがテニスサーブは時速210kmだからだ。

 話を戻す。

人間は瞬間の存在だ。だから自分の子どもであっても生まれた赤ん坊のときと成長した中学生のいまとは別人なのである。瞬間ごとに、別人になっている。

「わたしがおなかを痛めて産んだのよ」

でも、残念なことにそのときの赤ん坊と、いま言うこと聞かない中学生とは別人なのである。

会社の寿命は運

 ぼくも起業した創業社長だから気持ちはよくわかるが、「オレが起こした会社、100年、200年残ってほしいなあ。そのときにはオレはいないけど、でも、オレが生きた証としてさ。子どもが継いでくれたら一番嬉しいけど、こればっかりはね・・・」という心情。

残念ながら、ミもフタもない言い方をするが、会社が長生きするかどうかは運である。

事業というのは自然環境、社会環境、経済環境、政治環境の中で「生かされている」わけで、人間が自分でコントロールできるファクターは限定的だ。人間は自分で会社を作ったし、経営理論があるのだから、なんとかなるだろうと思うが、なんともならないのである。

これはまさに科学技術と人間の関係に似ている。

人間が科学技術を生み出したのだから、自分で完全にコントロールできると思っているが、本当はできない。
科学技術は、人間を使って自己増幅している。これはケヴィン・ケリー『テクニウム』(2010)の通底和音なのだが、ケリーに先立つこと2年前の2008年にすでに哲学者・木田元先生が指摘している。

「技術が異常に肥大化していく過程で、あるいはその準備段階で技術が科学や理性を必要とし、いわば自分の手先として科学や理性を産み出したのではないか、と疑ってみる必要がありそうです。

そして、その技術にしても、人類が産み出したというより、むしろ技術がはじめて人間を人間にしたのではないでしょうか。原人類から現生人類への発達過程を考えると、そうとしか思えません。」(哲学は人生の役に立つのか、PHP新書、p.30)

 ぼくは木田先生大好きだ。

先生がまだ学生で太平洋戦争直後の食えない頃、ヤミ屋のパシリをして生き延びたエピソードを知り、もう、大好きになった。

 学生時代だから1978年ごろだが、現象学に凝っていて、その第一人者が先生だった。

岩波新書『現象学』は、ほかの哲学者の文章がわけわからないのに対し、非常になめらかな達意の文章、親しみやすく勉強できたのでそれ以来のファンだ。

メルロ・ポンティの翻訳などでもお世話になった。たしか『時間』という作品もあったはずだ。ぼくの時間論は先生が基礎にある。

 そう。人間では、会社の寿命を伸ばすことはできない。縮めることはできる。放漫経営すれば簡単だ。それこそ一瞬のうちに倒産できる。

 しかし。

『ブランド・ジーン』でも問いかけたが、本当に倒産(または閉店)は悪いことなのか?

今日開店して今日閉店でもええやん

 京都を散策していて、ランチの時間になった。あてもなく歩いていたので店についての予備知識がない。ふと横を見るとラーメン屋がある。
これもご縁だと入ったら「意識高い系」ラーメン屋だった。

飲食には「似つかわしい系」があって、意識高い系はカレー、蕎麦が似合う。西天満にあった健康志向のカレー屋はおやじが意識高く、健康に配慮したカレーが売りだった。しかし、健康や体に優しいのかもしれないが、客には優しくなかった(環境に優しく、人に厳しい人みたいだ)。あかんやろな、と思っていたら閉店した。

 うどん屋は「愛嬌系」が似合う。まちがっても意識高い系になってはいけない。そしてラーメンは居酒屋と同じく「体育会系」が似合うのだ。そう、居酒屋のおやじがうんちくたれるのはいただけない。元気よく「ハイボールいただきました!」「はいよおーーー」がいい。時々勘違いした居酒屋オーナーが本出したり講演したりしているが。店に集中しなさい。

 で、その意識高い系ラーメンは、麹(こうじ)がどーのこーのなのである。まずくはないが、二回目はないな、というのが正直な感想で、レジでお金を払うとき、ふと横見たら張り紙がしてある。その日は5月6日だったのだが、8日に閉店という。

レジの女性に「ここ、閉まるんですね」
女性「そうなんです。オーナーが決めたみたいで」
「あ。オーナーじゃないんですか」
「はい。別にいて。チェーンをいくつももっていて」
「一年くらいやっていたのですか?」
「いえ・・・。一年もないです」

女性はとても残念かつ不本意な表情をしていた。たしかに、店には彼女ともう一人男性がいて、一所懸命にラーメン作って、愛想よく接客していた。無念なのだろう。

しかし、ぼくは彼女の話をきいて、「オーナーは偉いな」と思った。

やってみて、「あ。意識高い系、違ったみたい」と思ったとする。多くの経営者は「いや、でも、もうしばらく様子見よう。せっかく投資したんだし、まだ普及していないだけかもしれない」「データ分析してみよう」なんて、ずるずると傷口に塩を塗るはめになる。

「あ。意識高い系、違ったみたい」となったら、速攻で店を閉じる。そのほうが傷から出る血も少なくて済むのだ。

極端に言おう。今日、開店して、今日閉店してもちっとも構わない。

 一秒後には店も、客も、環境も、店のスタッフも、経営者のあなたも、別人になっているのだから。

 常連客を常連客とみてはいけない。甘えが出る。「また来て欲しい。うちの店を気に入って欲しい!」という「新規顧客」というつもりで接客しなければならない。「釣った魚に餌はやらない」気分でいると、客は、敏感ににおいを感じる。

 ある人の話。

 なじみの美容院に予約した時間に行った。30分待たされ、ようやく椅子に案内されて担当スタッフがやってきた。

「すみません、ちょっといまシャンプー台いっぱいなんで、先にカットからやってしまっていいですか」

いいですよ、と言ったものの、その瞬間、店と自分の間になんとも生ぬるい甘えの空気が流れたのを彼女は感じたという。彼女は、店を変えた。

 商店街の多くの店が残念なのは、「時間が止まっている」からである。
昭和から、時は動いていない。「長くやってます」は単なる知恵のなさである。古ければいいのなら、年寄りはみんな偉いことになる。しかし電車や映画館など、公共施設において迷惑なのは児童でも学生でも若者でもなく高齢者が多い。ケータイをマナーモードにしていないどころか、映画館の中で話し始めたりする。耳が遠いから声でかいし。

共感ポイント

 アップルが毎年秋になったら「新しいiPhoneを買え」と言ってくる。ものづくりの会社であれば「丁寧に、丹精こめて作りました。末永くご愛用ください」がスジだろう。そのくせ「じゃあ、一個ちょうだい」と言っても「しばらくお待ちください」と待たせる。すぐに届けない。

商いは、「共感ポイント」で関係が成り立ってる。ここ数年のアップルは共感ポイントを失うことばかりしている。

ユーザーは、いいものなら、頼まれなくても使う。行列してでも、買うよ。買う。

大阪駅前第三ビル地下二階にある「うどん棒」という四国うどんの店は、いつも満員だ。理由。おいしいから。それだけだ。SNSとか、CRMとか、ちょーちんとか、やらない。やらなくていい。うどん屋は、うまいうどんを愛嬌よく食べさせてくれたら、それでいい。うどん棒は、客で満席でも、前を通る人に声をかける。

「お二人さん、いかがですか?」
「いまならお一人さん、すぐにご案内できます」

あれほどの繁盛店なのに、渇いている。
それが好ましい。

いましかない

98歳の人と、ついさっき生まれた赤ん坊と、一秒後に生きている確率は同じである。
98歳だから残り人生が短い、赤ん坊だから人生の時間をいっぱい持っている。
間違いである。

いましかない

のである。
誰も同じ。

いましかない

の前には、全員が平等だ。

人の寿命は、人にはわからないし、人生の残り時間は常に

いま

やねん。

いま。

瞬間。

これを瞬間の経営という。
守ってはいけない。
守るから、みっともなくなる。

楽しいことだけ、やろう

楽しいことだけ、やろうよ。
いつもいま、なんだから。
守ることにエネルギー使うのやめて。
自分が楽しめていたら、お客さんも楽しいって。ぜったい。

こういうところへ、また行きたいなあ!!

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