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とりあえず、信じない。

斜め前のお宅にいるワンちゃんは、ぼくのことを犬と思っている。ドア越しに「におい」でわかるのか、ぼくが玄関出た途端鳴き出す。黙ってても、咳ひとつしなくても鳴く。吠える、威嚇する、というのではなく「アニキー! オレも連れてって!! お出かけ連れてってー!」と懇願する呼びかけなのである。うちの家族の誰にもしない。ぼくだけを「犬仲間」と思い込んでいる。

カウンターでたまたま隣り合った人となんとなく話してるうち、互いの境遇が似てるとわかった。酌み交わし、すっかり打ち解け合う。まさにそんな「同じ境遇フレンド」という空気がドア越しに、ワンちゃんの声を通じて、届く。朝シャワー浴びて出かけてるのに、そんなに犬っぽいのかと自分の才能にあらためて驚いてる。

さて;

テレビや新聞も見ようね、と呼びかけてるけど、だからといって、すべてを信じましょう、ではない。むしろいまの日本は戦時中のような危険な空気に満ちてる。盲目的に記事を信じてはいけない。

ぼくはロックンローラーで、その役割は「シーソーの片方にばかり集まって、反対側がピン、と上がってたら、そっちに行く」。つまり、「少ない方を選ぶ」

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みんながみんな青いね、と言ってたら危険で、誰かが「そうかな、赤じゃない?」と言わないと「正しさの罠」に陥ってしまう。正しい、というのは特定の範囲に限った場合のみ成立する概念で、たとえば愛煙家にとってたばこを吸うのはリラックス効果など自分にとっての「正しさ」だ。だけど、たばこの煙が弱い人にとっては「正しくない」。このように、「正しさ」は限定的なのである。もっと広げて論じてもいいけど、まあ、これにとどめておきましょう。正しさは限定的にしか成立しないのだ。

「みんなが青と言ってる」のに「赤じゃない?」と疑問を投げかけることを、価値の白紙化と呼んでる。ロックンローラーの役割である。

ただ、反対のための反対はしない。大学で学んだことは「ソース(一次情報)に当たれ」「エビデンスはあるのか?」。なので昨今ぼくは大学院教授たちの論文を英語日本語問わず読み浸ってる。するとメディア(大きな声)で耳にする内容がいかに偏っているか、場合によってはウソばかりか、が見えてくる。具体的な内容は控えるけれど、でも、そういったソースがぼくの判断基準を作ってる。

危険なことは「ムードに流される」こと。そして流されるのは、自分自身がきちんとエビデンスに当たることもなく、ただ「大きな声」に従っていれば悪いことは起こらないだろう、という姿勢だ。でもそれが自分の健康に関係するとしたら。しかも今後10年20年関係するとしたら。

いったんみんな「とりあえず、信じない」姿勢で「価値を白紙化」し、各自ソースやエビデンスを探り、その上で判断しましょう。すごくすごくすごくすごくすごく危険な空気だから、繰り返します。

とりあえず、信じない。

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