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罪と罰

家から放り出された。

さすがにひなが一日、こたつに丸まり、ボテッとした物体がテレビの前にいたらじゃまなんだろう。

正月を迎える準備するでもなし、洗い物もしない、掃除もしない。ただテレビ観て、食べて、寝るだけ。

ねこなら可愛げがあるが、おっさんは障害物になる。

昨日の歩数15。

おととい頑張って38歩。

熱も下がったことだし、会社の郵便物なども確認がいるでしょ、と、奥さんにつまみ出され、しぶしぶ出社。

植物の水の準備などを済ませ、年末年始読む課題図書をかばんに詰め込み、早々に帰宅した。
本日の歩数は現時点、これ。

さて、テレビをずっと観ていて気づいたのだが、ノンアルコールドリンクのコマーシャルが圧倒的に多い。

アルコール0.00%と謳うが要するに「ビール風味のジュース」なわけで、身体に良くないんじゃないか?

ビール風味を出すために加える添加物ってのがあるんだろう。

美味しいビールを作る

ではなく

美味しいビール風味のジュースを作る

それをジュースより高い価格で売る。なぜなら「ビールの仲間」だから。

つまり、メーカーにとっては価格的に美味しいわけだ。

おうちごはんvlogやってるYou Tubeで若い夫婦のを観たりするが、「今日は特別な日なので、ビールはちょっと贅沢に金麦にします」と言っててびっくりした。

金麦って、ビールじゃない。

ただ、若い人にはもはや第三のビールとか発泡酒とかリキュールとか全く関係ないのかもしれない。

ドストエフスキー『罪と罰』の「罪」とは、「人として、やってはいけないことをやってしまい、天に顔向けできない」という意味の「罪」ではなく、「人工的に人間が作った線引を超える」=「矩(のり)を超える」意味。

ドストエフスキーは巧みに示唆している。

主人公の青年が犯行に及ぶ老婆の家までメートルなどではなく「ちょうど730歩」と歩数で示す。

「一歩ごとに、興奮がいよいよはげしくなってきた」

そして

老婆は安心して、ドアをいっぱいに開けた。青年はしきいをまたいで暗い控室へ入った。

ドストエフスキー『罪と罰』新潮文庫版上巻p.11

この「しきいをまたいで」という何気ない叙述に、「矩を超える」が含まれている。「こっち」をまたいで、「あっち」へ行った。

ノンアルコールで、これを思い出した。

アルコールが身体に悪くて、
ノンアルコールが健康に良い

なんてのは、人間が勝手に作り出した幻想だ。

このままいくと、アルコールを飲むのは「罪」になってしまうのではないか?

帰宅すると、奥さんが某宅配便ドライバーからいただいたという麺でにゅーめん作ってくれた。

昨日いただいたりんごも彼の目の前で開封し、おすそ分けしたりしてる。
ほぼ毎日、うちには何かが届く。お世話になっているので。

彼の奥さんの実家から送られてきたおすそ分け。長崎・五島列島からの手延べうどん。

とっても美味しかった。

でも、「某」と会社名を濁したのは、こういう「個別の顧客への特別な何か」をやったことがどこかで会社の耳に入ると「矩をこえた」とされ、彼が罰せられるかもしれないからだ。

しみじみ、やりにくい世の中になったと思う。

ということで、『罪と罰』、いまこそ、新しい意味を持つと思い、年末年始課題図書にしています。『カラマーゾフの兄弟』はその後。

にゃー。

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