「考える」を捨てる
世界は名詞でできている。
イヌイットが雪の名前をたくさん知っているのも、ぼくたち日本人が雨の種類をいろいろ区別できる(霧雨、小雨、豪雨、ゲリラ豪雨、小ぬか雨、春時雨・・・400以上あるそうだ)のも、名詞によって現象を細かく識別できているからだ。
逆に言うと、名詞の数で、世界の見方・考え方は成立している。ぼくたち日本人は魚の名前を細かくつけて識別している。しかし、アメリカ人にとっては、ハマチ、ブリ、カンパチはまとめて「イエローテイル」であり、これはニューヨーク在住の田中真太郎さんにも確認してもらったことがある。
ぼくはずっとマーケティング&ブランディングをやってきたから、世界をそれらの名詞で把握している。
ダンスや歌をやってる人の見る世界はダンスや歌にまつわる名詞でできている。
これらを環世界と言う。
さて、ここからがまたわけのわかりにくい話になるんだけど。
人は名詞でできた世界に暮らしている。名詞は首から上の思考だ。
名詞に刺激受けて首から下がなんらかの反応をすることがある。たとえば、たまたまラジオから好きなNiziUの"Make you Happy"が流れてきたら「あ、NiziUだ!」と嬉しい気持ちになるとか。
このように嬉しい気持ちならいいけど、悔しい、悲しい、怒り・・・なども、実は首から上、思考が発火点となって生まれる。
恋愛の理想は「バチッと火花が散って」そのままおつきあいが始まるというもの。ところが「彼と結婚したらセレブな生活ができるかも」→これ、もう、思考してる。すると、実際に結婚したあと
「こんなはずじゃなかった」
となる。「こんなはず」というのは思考して思い描いた理想の姿との相違。
「どうしてあいつは昼夜逆転の生活してるんだ? 学校も行ってないのに」ひきこもりの子どもに親が思う。これ、思考なんだ。
子どもが「存在」してくれていて、元気に育ってる。それだけを受け入れれば良いものを、ソーシャル・フィクションに過ぎない世間常識がアタマに入っていて、その思考が怒りを生む。子どもは愛してあげる対象であって、怒りの対象ではないのに。ムダな怒りなのである。
「あの人、うちらがいつもお茶場掃除しているのわかってて、どうして一言の感謝の言葉もないのよ」これも、「べき論」つまり、思考が生み出す不要な怒りに過ぎず、大切な人生の時間を浪費しているだけの話だ。
何が言いたいかというと、
思考を捨てると、楽になるよーん
という、甚だ無責任な話なのである。
長く商売やってきた。その経験からいうと、「考えれば考えるほど、うまくいかない」。直観で「あ。これ、違う」と思うことってある。そういうときに「もう一度よく考えてみよう」と考えた結果「やっぱやろう」となったら必ずうまくいかない。
「独立してニューヨークへ渡り、起業する」という直観が降りてきたのは41歳だ。冷静にそろばんはじいたら、絶対に出てこない解。でも、実行した。実行した結果、JOYWOWが生まれ、JOYWOWの仲間たちが生まれ、そこから派生した数々の商いが生まれ、いまここの場も生まれてる。
考えると、人は、マイナスに行く。
なので、できるだけ考えない。いや、できるだけではなく、考えず、自分の直観に従って生きる。
これが良いと思います。考えるな、感じろ・・・あ。ブルース・リーのパクリだ(笑)
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