どうせ私は26の女よ!
「どうせ私は26の女よ!」
信号待ち。前の若いカップル。手をつないでる。男の子はシュッとして、背が高い。女の子は熱くなるあまり、マスクをあごにひっかけたまま口をとんがらせてる。目の前だからいやが上にも耳に入る。
「クリスマスとかお誕生日とか、なんでなん?」
どうやら彼女は、クリスマス・イブ、クリスマス、お誕生日に彼と一緒にいられず、26日にしか会えないことに怒っているようなのだ。それが「どうせ私は26の女」という抜群のコピーを生んだ。
これで思い出したのが、今年1月、大病院で眼の検査した時のことだ。
医師は何度もぼくを検査させる。それは、彼女の脳内にある知識が示すパターン認識(病名あるいは症例)との答え合わせのためであり、ぼくと真剣に向き合う姿勢とは程遠かった。考えてみればそういう経験はこれが初めてではない。以前、ひどい頭痛で救急病院に運ばれたときも、若い当直医はぼくを見るよりパソコン画面しか見てなかった。答え合わせなんだ。
ニューヨークの精神分析医デヴィッド・シャインバーグも似た話をしている。患者に言われたという。
「あなたがたお医者さんの治療の仕方を見ていると、あなたがたは特定の種類の患者さんをおもちで、ですからその人たちに<X>を施せば、一定の効果が得られる、と。そんな風に考えていらっしゃるように思えるのです。あなたは私に話していらっしゃるのではなく、ご自分がこれこれの結果を得ようと望んで、私にこうしていらっしゃるのです」
話を戻すと、彼女は何に怒っているかというと、自分の中にある考え「仮説」と現実の彼の行動(答え)が合わないことに。彼は本当にお誕生日やクリスマス・イブ、クリスマス、都合が悪くて会えなかっただけなのかもしれない。なのに、彼女の中にある仮説は「彼が本当に私を大事に思っているのであれば、お誕生日やクリスマス・イブ、クリスマスに時間を取って会うべきである」。その自分で作った考えが自分を苦しめている。
勝手に自分で自分を苦しめているだけなのだ。
考えは、過去の体験から作られる。
では、クリスマス・イブやクリスマスが「特別な日」になったのはなぜかというと、彼女と彼が作ったのではなくコカ・コーラのマーケティングに過ぎない。
サンタクロースが赤い服来てぽっちゃりしたおじいさんなのは、コカ・コーラが作ったフィクションである。ちなみにコカ・コーラはあの赤を色彩商標登録している(英語なので、字幕オンにしてみてね)。
つまり、自分と彼以外の誰かが作った習慣に苦しい思いをしている。
こういうのって、珍しいことではなくて、たとえば、「子どもは元気に毎朝学校へ行くべきである」なんていうのも、誰かが勝手に作り出した幻想に過ぎない。だからうちは子どもが学校に行かなくても平気だった。いまはちゃんと仕事してる。社会的幻想なので、ソーシャル・フィクションと呼ぼう。
「いい学校出て、いい会社」というのも同じく社会の誰かが勝手に作ったソーシャル・フィクションであり、これも何ら根拠はない。ないのに、みんな「自分はいい学校出てないし、いい会社に入ってないから、明日にも貧乏するんじゃないだろうか」なんて怯えたりする。しなくていいのに。
12月26日土曜日、彼とこうして一緒に過ごせて、手もつなげている。大事な人と同じ時間を過ごせているだけで幸せなんだよ。したくても、できないのを教えてくれたのがコロナじゃん。
考えは、過去。いまこの瞬間を大事にね。
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