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しまった、塩にすればよかった

先週火曜日から出張。出張中はとにかく時間に追われた。金曜夜に帰ってきて昨日の土曜日は公益財団法人三重県産業支援センターさん主催三重塾講義(オンライン)。ようやく今日はオフィスで自分の仕事ができる。noteも書ける。とはいえ、連載コラムが待っているので、まずはそれからかな。請求書も作成しなきゃ。

久しぶりにオフィスの掃除をした。忙しいから、時間節約のため、ついAirPodsで何かを聴きながらやりたくなるが、やめた。

「ながら」は、時間節約になりそうに見えるけど、実はならない。なぜなら、アタマを使うから。掃除しながら、音楽を流すとする。アタマは「あ、ここ、意外にひどく汚れてる」とか、考える。途中流れてきた音楽に、「この曲いいな。(BLACKPINKの)誰がボーカルだっけ」と考える。考えるということは、脳に負荷をかけているわけで、結局その分のエネルギーダウンは後で回収される。その後、脳がいきいき働かないので、時間は余計にかかるのだ。

車運転中、勉強しようと誰かの講演を流すとする。移動しながらその時間をムダにしないとても生産性の高い時間の使い方に見える。しかし、そうではない。運転というのは全身が緊張状態にある。ひとつ間違えば事故につながるのだから、全身が考えている。そんな中、講演の中身を理解しようとすると、脳にものすごい負荷がかかる。つまり、運転の質も、講義学習の質も低レベルになる。いいことはないのである。

ここから、「考えない」という話に移ります。

悩む人はずっと悩んでる。悩みがなくなることは、ない。悩むということは、考える、ということだ。答えが出ないから、さらに悩む。

ところが。

出る答えというのは、瞬時に出るものなのである。

わかりやすい例で言うと、ラーメン屋さんに入った。カウンターに座って、さて、塩かしょうゆかとんこつか、あるいはちょっと外してチャーハンか。答えは瞬時に出るよね? そして、出た答えが正解なんだ。食べ始めて「しまった、塩にすればよかった」と思うことがあるかもしれないけれど、次来たときの楽しみが増えた、というだけの話。

悩みはみんな「しまった、塩にすればよかった」を防ごうとして考えているだけであり、これを学会では「しまった、塩にすればよかった思考」と呼ぶ(ウソです)。

「しまった、塩にすればよかった」をなくすために考えるということは「ミスをなくす」「正解を探す」「失敗したくない」動機であり、それは人生をつまらなくしている。人生の面白さは「先が読めない」ところにある。そして、考え、悩んだところで、「先が読めない」のは変わらない。そう、変わらないのだ。何をやっても人は瞬間に生きるほか、ない。

人間社会は、「大きなウソ」でできている。今も昔も。ウソも大きすぎると本当になる。こうしているいまも、大きなウソは深く静かに着々と進行している。では、考えると、そのウソの背景にある「隠されたもの」が見えてくるかというと、見えない。たとえば、いま盛んに毎日報道されている数字。あれ、本当かどうか、だれにもわからないよね。でも、数字によって生活が左右されている。

なぞなぞ「増えると減るもの、なあに?」
ヒントは「飲食店のお客さんの数」。
これもさ、数字に振り回されているよね?

言い出せばキリがないほど、世界はわからないウソでつくられている。でもね、考えた先に答えがあるかというと、ない。

ならば、考えない。

人間も自然界の中の1つだ。自然に委ねる。答えは、自然が出してくれるだろう。エネルギーを、自然からもらい、自然へと還流させる循環。

今朝の雲と光
冬は、つとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず。霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎ熾して、炭もて渡るも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりて、わろし。
枕草子

冬は早朝がいいよね。太陽にエネルギーをもらえる。

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