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珈琲、学術、読書

 皆さんの読書の友は何だろうか。人によってはクラシック音楽だったり、ウイスキーだったりするだろう。私の場合は最も多いであろう珈琲である。
 冬。何も予定のない休日。斜めに射す午前10時の太陽光が部屋を照らす。そんな中で楽しむ珈琲と読書がお気に入りだった。最もそんな充実した朝など数えるほどしか体験していないのであるが。
 こんな書き出しになったのには理由がある。今日私は年上の友人kさんと珈琲を飲みに数駅離れた喫茶店まで行ったのだ。kさんは、研究者の卵で私がkさんの研究を手伝った報酬として連れて行ってもらったのだった。そこでいただいた珈琲の美味に酔うまま、筆を執っているというわけである。
 講義が終わって私が電車に乗ったのが3時くらいだった。帰ってきたのが8時くらいだったので、4時間ほど滞在したのであろうか。全く楽しい体験だった。
 kさんとの会話は他愛もない話がほとんどだったが、読書についても話題に上がった。主題は児童書についてだった。
 皆さんは自分が初めて気に入った本を覚えているだろうか。私は前講にも書いたが、「エルマーの冒険」である。kさんのそれは「ダレンシャン」だった。気に入った本は何度でも周回したくなるものである。私もkさんも何度も周回した思い出を語った。
 そんな話をしていると私は思い出した話があった。エルマーの冒険第二部カナリヤ島での話である。第一部で竜の救出に成功したエルマーは竜の背に乗って故郷への帰還を目指す。その途中に立ち寄るのがカナリヤ島である。
カナリヤ島では、とある病が流行していた。それは「知りたがり病」。カナリヤたちはかつて埋められた宝箱の中身が知りたくて知りたくてたまらない。知りたいあまりに病気になっちゃった、みたいなあらすじである。
今になって思い返してみるといささかバカらしい病気に思えるかもしれない。しかし、私はこれをバカにできないのだ。なぜなら私たちは「知りたがり病」に感染しているのだから。
 「続きが気になりすぎる」読書好きなら一回は味わったことがあると思う。私は10分読もうと開いた本を勢いそのまま読破したことがある。立派な知りたがり病だ。あまりに続きが気になると体が変になりそうになる。心が躍ってじっとしていられなくなる。理性ではなく、心が、脳みそが読書を急くのだ。早く、早く読め、と私の根本が命令する。これが病気でなくて何であろう。
 私は読書など、アヘンであるべきであると思っている。その場の快楽と貪るような欲に突き動かされて行う読書が良い(楽しい)読書だと思っている。少しイケナイことでいいじゃないか。私たちは決して高尚なことをしているわけじゃないんだ。そう思わせてくれる読書体験が好きである。
 学術にしても、アヘンであることは悪いことじゃないと思う。kさんは自分の研究を「無駄の集大成」と言っていたが(kさんの研究分野は文系)それでこそ研究なのだ。「これ何になるの」が積み重なって今の文明を作り上げているのだ。その場の学習、研究が楽しい。そんな快楽に突き動かされてやめられなくなる体験こそが、良い体験なのではないだろうか。
 一応断っておくが、私は大麻やアヘンが良いと言っているわけではない。ただ学術や読書は高尚な物ではないのだと言いたい。むしろ世の中の高尚なことなど、妊娠出産と死ぐらいしかない気がする。
 以上、あまりに美味しい珈琲の酔いに任せて宵の書き物をした男の落書きであった。ご読了ありがとうございました。


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