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私の厄介な香水

 匂いを纏う男は嫌いだ。

 その男は決まってあの匂いを纏っていた。彼に会うといつもその匂いまみれになった。服が、髪が、下着が、私の肌が。私の吸う空気も、鞄の中に入れっぱなしだった文庫本も、その男の所有物になっていく。

 私はその匂いが、どちらかというと苦手だった。だから帰り道ではいつも自宅に着くまで深呼吸を繰り返していたし、むせるように香りを浴びた体は朝帰りには不向きで、すれ違うサラリーマンや学生に厳しい視線を投げられた。

 それなのに、その男と会う日はいつも、クローゼットの中でどの服を彼の匂いまみれにさせようか、楽しんで選んでは身に着けて行った。忘れてはいけないのは、本棚から気分で一冊本を選んで鞄に放り込むこと。本は、忘れた頃に、捲られると、あまりにも微かだけれど匂いがたって、しばらく彼を思い出させてくれる。それがとても気に入っていた。

 ある日、まだ彼の前で着ていないカーディガンと彼の家に持っていっていない文庫本を鞄に入れて、出掛けた。彼の家へ向かう途中で、嗅ぎ慣れた匂いを纏う女性とすれ違った。私は動けなかった。漂う残り香を確かめるように吸って吐き出してを繰り返した。

 しばらく、長いこと、立ち止まっていたと思う。頭の中では色んな事が浮かんでは絡まって、大きくなっていった。ただ、最終的に私があの場で下した結論は、今日を最後に彼と会うのをやめるということだった。私は来た道を引き返し、百貨店へ向かった。

 彼の香水と正反対の香水をそこで買った。私の好みの香り。すっきりと爽やかな、目が覚めたような香り。その香りを全身に、カーディガンにも本にも、下着にも肌にも髪にも、余すところなく纏って、彼に会いに行ったのだ。
 
 目には目を、歯には歯を。香りには香りを。それはある種の復讐のつもりだった。

「私のこと、忘れちゃやだよ」

 そう言って、彼の体に自分の体を擦りつけた。彼の顔の前で何度も髪を嬲った。疲れ果てて眠ってしまった彼を横目に、残りの香水を振りまいた。ベッドの上の彼の体に。窓のカーテン、キッチン、バスルーム、玄関。クローゼットを開けて吊るしてある服。本棚から無作為に本を取り出して。

 最後に自分の体や服に残りを振りかけて、香水の瓶は空になった。私は満足して彼の家を後にした。

 帰り道では、風に乗って自分の香りがした。大好きな香りなので、息をするたびに香りが感じられるのが嬉しかった。走っても立ち止まっても、いつまでも香っていた。夜だから誰とすれ違っても、人目など気にしなかった。

 しかし自宅に着いて、しまったと思った。私の家にはまだ彼の匂いが残っていたのを忘れていたのだ。彼の匂いに触れた途端、自分に纏った香りが堪らなく鬱陶しく思った。この香りを飛ばさなければと、焦って私は、急いで着ていた服を捨て、シャワーで香りを落とした。がむしゃらに。そしてクローゼットの服を全て床に放り投げ、本棚の本を片っ端から捲り、彼の匂いを忘れないように、微かなそれを一生懸命嗅いでいた。

 この想いを、たったの一晩で、私は彼に与えられただろうか。それくらい、果たして彼は私が好きだっただろうか。私はとても好きだった。

 彼の匂いに包まれながら私は眠った。

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