色んな色であろうよ
私は、色んなことがちょっとずつ好き。
「色んな料理をちょっとずつ食べたいよね」と母とよく話す。
琴の音のように美しい言葉を並べた文を書きたいこともあれば、どうしようもなく汚い自分の内側を、泥を塗りたくるみたいに書き連ねたい時もある。
色んな感情を持ち色んなことに興味を持っている私。
悪く言うならよく気が散り、気分屋で何もかも中途半端な私。
自分の持つ沢山の色の中には、世間的にファンが少ない色も多い。それでも最近は、色んな色であろうと思うようになった。
自己肯定感を持つにはどうしたらいいのかという自分の長年の課題に対して、自己否定を認めることが自己肯定の一歩になると思ったことに似ている。
このような自分もいいか。自分を1つにまとめなくてもいいかと思えたらラッキーだし、軸を持ちたいともがく自分も可愛らしいと受け入れるのもいいかもと思う。
世の中は濃い一色で染め上げることを良しとしている?
まず、どうして私はこんなにも自分がさまざまな色で構成されていることを否定していたんだろう。
それは、きっと何か一つに秀でることが素晴らしいという考えや、自分を説明するものがほしいという考えが積み重なって出来た縛りによるもの。肩書きや勲章が、その人は美しい色に染め上がった一人前の人間なのだと錯覚させる。
だけど色んな人やモノから価値観を吸収してきた中で、自分だけの色を作るのは高度な技だと思う。
真っ白なパレットに色を乗せていくだけではなくて、混色という過程を経なければ自分だけの色は作れない。もし所々混ざっていたとしても、それに気づけていないのかもしれない。
20年ちょっとじゃあ、きっと濃く染まった人間にはなれやしない。
だから働く上でも、色んな好きをちょっとずつ、な働き方がやりやすくなればいいなと思う。
色んな好き
をちょっとずつやっていけば
色んなスキル
になると思っているから。好きを仕事にできないとか、好きを仕事にすると嫌いになっちゃうとか、そんな悲しい時代にならないために。
オリンピック選手のような輝かしい金色や、好きを仕事にしているオレンジ色のあの子のように私は今はなれていない。
その時の状況で、使う色が違う。それでいいと思う。
いつか私だけの色になっているかもしれない色んな色を、今は受け入れて、育んで、誰かに渡していこうと思う。