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信州には蕎麦とおやき以外、何もないから…などと、信州人にはよく言われるけれど…。【あとがき あるいは まとめ】

【あとがき あるいは まとめ】
東北地方の人間に、この地域の名産品と言えば何ですか?と尋ねると、水を得た魚のようにお国自慢が始まってしまう傾向があるけれども、同じような問いかけを信州人にしてみると、少し悩んだ素振りを見せたあとに、「信州には蕎麦とおやき以外、何もないから…」という半ばお決まりのような回答が返ってくる。
そんな拍子抜けするような信州人の発言がもどかしくて、信州人のネガティブな発想を打破してみようとして始められた一連のシリーズではあるけれど、だんだんお国自慢をしない信州人の特質と、信州の風土がわかってきたような気になってきて、これもいいかなと今では思うようになってしまっている自分がいる。


信州という土地は、その隣接する地域に別荘地を抱えているところも多くあり、避暑滞在者や移住者などが身近に多く存在している場所である。
それゆえに、自分たちの土地柄を客観的に見詰める機会が、他県の人たちよりも、若干、多いのではないかと思われる。
信州の特産について、蕎麦とおやきしかないから…とぼやかして答えるのは、きっと、信州人の、そんな客観性の賜物なのであろう。
今となっては、そのような客観性こそが、お国自慢をあまりしないという信州人の特質にも繋がっていくような気がしている。
信州人と接しているうちに、お国自慢をしないということへの物足りなさよりも、その客観性からくる特質が、幾分心地よく感じられるようにもなってきているから、不思議なものである。


よくステレオタイプのように、盆地の人たちは閉鎖的だよと、言われがちではあるけれど、信州という土地柄は、ほかの平野部の地域と比較しても、決して閉鎖的な気質が目に付くということはないように思う。
それは、浅間山や八ヶ岳、北アルプスの麓などの別荘地に隣接する土地に限ったことではなく、信州全域に言えることではないかと感じられる。
信州という土地は、別荘地が開発されるようになった近現代に限ったことではなく、太古の昔より、さまざまな種類の人の流入と往来が激しかった土地柄であった。
そのことが、現代の信州の風土と気質とに、決して無関係ではないと考えられる。


縄文時代には、信州ブランドの黒耀石に惹かれてやってきた、異なる土器文化圏の人々の往来と移住とがあり、
縄文から弥生時代へと移り変わるあたりには、ヒスイを求めて上中越方面から遡上してきた人々があったと思われる。
弥生から古墳時代の初期にかけては、北九州の海人氏族や、国譲りに敗れ落ち延びて来た出雲神族の、集団的な移住が行われたであろうし、
古墳時代の盛期には、ヤマト王権の進出のみならず、百済や高句麗からの渡来人たちが、信州各地に定着していった。
渡来人たちは、乗馬や仏教といった新しい文化をいち早く信州に伝えていたから、信州は、それと気づかないままに、文化的に最先端の都市であっただろう。
高原を切り拓いて導入された、馬牧の経営に携わる中央からの移住者は、年を追うごとにますます増えていったであろうし、
善光寺信仰の隆盛とともに、善光寺を訪れる参拝者たちが信州各地を移動遍歴し、ある者はここに拠点を移したことだろう。
信州という土地柄は、数千年に渡って、移住者や遍歴する旅人が、身近にあふれている土地でもあった。


けれども、信州の移住者事情は、実はもっと複雑なものでもあっただろう。
思うに、信州という土地は、いつの頃からか、再起を誓う亡命者たちの、駆け込みの土地としても重要な役割を持っていた。
アフリカ史には、奴隷狩りから逃れるための駆け込みの森・キサンガニの存在があるけれども、それと似たような役割を、信州という土地は持っていたのかもしれないと思う。
ただ、信州に潜伏した亡命者たちの中には、単に失意から逃げ込んできた者たちだけでなく、再起を期してもう一度、表舞台に飛び出していく者たちも多かった。
建御名方神、安曇族、謎を残しつつ物部氏、ひょっとすると大伴氏、木曽義仲、北条時行、宗良親王、足利成氏、松平忠輝、相良総三、さらには松代大本営。
いつの時代も信州は、そのような大きな歴史のうねりと決して無関係ではなかったし、むしろ、歴史のその最後の波紋を、常に受け止めていた土地柄だったようにも見える。
信州に沈殿している歴史の滓は、本当に面白いものだと思う。


そんな信州に生まれ育った信州人であればこそ、客観的・大局的な視点に立って、信州には蕎麦とおやきしか…という発言をするのだと思う。
信州の特産品と食文化を見ていく中で、そんな大それたことを考えてしまったということを書きつけて、一連のシリーズのまとめの一文とさせていただこうかと思います。


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