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見えなくなってしまった社会を届ける

先日は北海道庁の「生活支援コーディネーター研修」。

高齢化し、減りゆく地域の中で、暮らしをよりよくしていくために、どのように地域のつながりや取組を育んでいくか。

「住民主体」と「社会参加」を、机上の空論ではなく、実践に落とし込む。そのために現場でがんばっているコーディネーターの皆さんがオンラインで全国から集まる学びの場だった。

まずはその時間が無事に開催されたことに感謝をします。ありがとうございます。

さて、今回私が担当したのは、こちら。

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私の分科会のオチは「人をやる気にさせてはいけない」ということなんだけれど、どういうことかは今後の研修でご一緒する方は学びましょう。

この研修全体としては、そういった人的スキルやマインドセットの話もあれば、仕組みの設計、事業評価、政策レベルの話などの分科会もあった。

とてもじゃないけど、これらは、独りじゃ勉強しきれないよなあ…。まして、設計や運用なんて。いろんなセクターがタテにもヨコにもつながって、力を貸しあっていかないと。そんなことをますます実感した。

見えなくなってしまった社会を届ける

清掃現場、写真2

(写真:NPO法人御用聞きわらび

今回、研修で使う事例紹介のドキュメンタリー映像を撮りに、現地に入った。公営住宅での単身世帯の方の死亡の片付けの現場だった。そこの片付けを、地域密着型のNPO(といっても、いわゆるプロじゃなくて、同じような近所にお住いの生活者の組合)が行っていた。

剥がれてきた壁、生活ゴミ、おしっこがためられたペットボトル、カビで変色している布団の山、猫の死骸も5匹ほど残された現場もあったらしい…。私がそこに行ったときには、それらはすでにある程度片づけられていたが、つよい腐敗臭が鼻を刺した。最後はどんな生活をしていたんだろうか。

社会のセーフティネットからこぼれた人たち、社会から見えなくなってしまった人たちの生活の「なれのはて」がそこにはあった。

それだけで私はくらっていたけれど、片付けをしている方が「まだここはマシなほう。」とおっしゃったことに、さらにショックをうけた。その言葉と「まだマシ」な匂いと光景が脳裏に焼き付いて、撮影の日の夜は眠れなかった。その後も、夢でそのときの匂いを思い出してしまう。

その町は、昨年大きなテーマパークが開業し、街路整備事業などで、中心市街地などは表向きには小ぎれいな街だ。おしゃれなカフェやゲストハウスもあったりして。でも、その近くから一歩入ると、そういう現場がある。

そこには、社会から見えなくなってしまった人たちがいる。そして、その人たちをなんとかしてしようと奮闘し、葛藤する姿がある。(そういう人たちの「誰ひとり取り残さない」は、虹色バッチをつけている人たちとは迫力がちがう。)

活動家インタビューで「担い手(比較的元気な高齢者)は、孫にお小遣いをできるくらいの賃金で働いていただいている」と聞いた。そう語る事務局の方々は、現場作業もしながら、「最低賃金ももらえていない」そうだ。

今、私たちの絶望も、希望も見えづらくなっているんだと思う。ほんとうは、あるのに。でも、キラキラした情報の影で、それらは見えづらくなっていて、ないことになりがちではないか。それがくやしかったし、自分の想像力のなさや、講義でえらそうにカタカナ語で話しているのも恥ずかしくなった。

私が経験したことは、その街だけで特別に起きていることではないとおもう。こうした厳しい現場でなくても、私たちは日常生活のなかで、お互いの表情や声、存在すら見えづらくなってしまっている。

そんな今だからこそ、下手でもカメラを担いで、見えづらくなった生活の現場に入り込んで、続けねばと思う。今、本当になにがおきていているのか。それを出しっぱなしじゃなくて、対話の場で届けることまでやりたい。ひとりでは、見えない現実も、あたらしい可能性も見えてくる。

今回も、そのためのチャンスをいただいた一つの機会だった。この「ドキュメンタリー映像×オンライン対話×多様なステークホルダー」は、もっと可能性があると思うので、これからの仕事で試行錯誤していきたい。意味のあることだと思って、一緒に探求していただける方は、ぜひ応援いただけると嬉しい。

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ダリアのある庭先

その帰り道、庭先がちょっとした花園になっているおうちがあった。私が「きれいなダリアだ」とつぶやくと、草木の影から、作業している高齢のお母さんが出てきた。

「入って見ていきな。トマト持っていきなさい。これ持っていきなさい。私はもともとねえ…(あれやこれや)…」

「…最近はさあ、庭を見たいって言う人がやって来て、困っちゃうのよねえ」。

そう言いながら、笑顔だった。

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ひとは、だれかを助けることで、自分が助かる。だれかにあげることで、自分がもらう。ふしぎな生き物だ。

今の時代に、テレビやSNSから無限に垂れ流される、わかりやすくて薄っぺらな「あかるい未来」を信じられなくなった私たちにとって、なにか希望があるとすれば、今回、撮影には入った「社会の影の部分」や、私たち自身に宿る「ふしぎさ」の中にあるのではないかと思う。

ほんとうに美しいものは、見えづらく、聞こえづらいものだとおもう。「ないことにする」のはあまりにも簡単だ。探そうとしてもすぐには見つからない。

たのしいゲームで「わかった気にさせる」のも簡単だが、それ以上人が学ばなくなることを考えると、「わかりやすさ」の罪は重い。

自戒しておくと、もし私が、「SGDsを普及するまちづくりファシリテーター」や「活性化イベント」屋さんだったら、今回のチャンスはいただけなかったと思う。もし私が車で移動していたら、庭のお母さんとの出会いはなかっただろう。もし私が歩いてスマホをいじっていたら、ダリアは見えてこないだろう。

それは、小さくて、わかりづらくて、じわじわしたものだ。その弱いシグナルを、わざわざ、ゆっくり見つけていこう。それをエンタメやクリエイティブの力で面白い体験として増幅させていけるといいし、対話の力で深めていけるといい。そのあたりに最後の頼りがある気がする。



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