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関ケ原(前編)

関ヶ原の戦いの後、石田三成は単身戦場を抜け出て、近江(滋賀県)に逃げ込みました。
大阪城までたどり着き、もう一戦するつもりでした。近江は自分の出身地でもあり領地でもあったので、かくまってくれると思いました。

三成は、行政家として非常に有能で、その領国経営は大変うまくいっていました。領民を愛し、また愛されていました。
税率が低く、飢饉が起きればコメを与えるようなこともしていました。

その近江で、三成は与次郎という農民にかくまわれます。戦で負ったケガや病気を治すよう、甲斐甲斐しく世話をしてくれました。
これは非常にリスクのある行為です。
西軍の大将だった三成の首は褒章首で、捕えれば多大な褒美がもらえる一方、かくまえば罰則が適用されます。この時代なので、褒美も責任も村単位です。村全体に褒美が下され、村全体に罰則が下されます。

与次郎はただの百姓でしたが、かつて領国見回りをしていた三成から、「そちが、与次郎と申すか」と一言だけ声をかけられたことがありました。感激した彼は、それ以来「殿のご昵懇の者」であると思いこんでおり、今回の行為につながりました。

三成が謝意を呈すると、「あのとき、コメを頂戴せねば、村の者みな飢え死んだでしょう。その恩返しゆえ、左様なもったいないお言葉をかけられますな」と泣くように言いました。

そこで三成は深く考えます。

彼は、数日前の関ヶ原の戦いで同盟軍の裏切り・サボタージュのせいで、絶好の勝ち試合を逃していました。
太閤秀吉の恩を忘れて、いとも簡単に裏切る場面と、たった一言をかけただけで、多大なリスクを負って面倒を見てくれる場面を、わずか数日のうちに体験しました。そのGAPたるや、でかい!

振り返ると、秀吉政権下における彼の官僚としての行動・発言は、周囲の大名たちの神経を逆なでするようなものが多くありました。
豊臣体制の維持のためには必要な措置であるとの信念に基づいたものであったとしても、あまりに峻厳すぎると、人は背を向けます。組織人としては幼稚であったと言わざるを得ません。

太閤秀吉の恩だけでは人は動きませんでした。戦いの結果は、すべて大将である自分の人格に帰結します。

これに気づいた三成は愕然とし、与次郎に言います。「自分を捕まえて、報告せよ」。これによって、与次郎の村は助かり、逆に褒美をもらえます。最後の彼にできることは、自分の命をもって与次郎に報いることだったのです。
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関ヶ原の戦いは、日本史史上最大のビッグイベントです。その詳細を紐解くと、多くの示唆を得ることができます。
もし三成が、自分の領国経営のごとく、良心的な官僚遊泳をしていたら、もっと違った結果になっていたことでしょう。

2021年12月某日、私はこんなことを考えながら、関ケ原駅に降り立ちました。(後編に続く)

※なおトップの写真は関ケ原観光ガイドHPのものです。
※本稿は司馬遼太郎『関ケ原』より着想を得て執筆しました。








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『人の生涯は、ときに小説に似ている。主題がある。』(竜馬がゆく) 私の人生の主題は、自分の能力を世に問い、評価してもらって社会に貢献することです。 本noteは自分の考えをより多くの人に知ってもらうために書いています。 少しでも皆様のご参考になれば幸いです。