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希望を紡ぐ

私は小さい頃、友達と遊びに行くことがほとんどなかった。

母から「いつだれとどこでどのように」のラッシュがあり、ターンに耐えても直後に「車で送っていこうか/迎えに行こうか」の特大パンチが来るので、とうとう答えるのが面倒で「友達と遊びに行き、新しいセカイをつくること」を諦めてしまったのだ。

それはそれで自分の世界に集中する楽しさを知ったので良かったと言えばよかったのだが、本当は自分の世界に集中するのと同時進行で自転車を乗り回して近所の駄菓子屋さんに行きたかった。

親の介入から逃げるように、市外の高校に行き、県外の大学を選んだ。

世界がひらいてきたのは高校以降である。


高校生になると、友達とライブハウスに足を運ぶようになった。
電車で片道2時間くらいかけて豊橋の大学まで行ってナンバーガールの学祭ライブを観に行ったり、ダイヤモンドホールかクアトロかどっかでやってたライブが楽しくて終電を忘れて、初めて無断外泊をして怒られることもあった。

外泊をした翌日、早朝に友達と自転車で二人乗りをしながら、OMOIDE IN MY HEADを一緒にうたった。朝日がほんとうに白昼夢色に染めるのを見た。

京都の大学に入ってからはとにかく清春やサッズのライブにたくさん行きたくて京都と大阪公演はほぼ全部行っていた。ひとりでも行く。あるときライブハウスの熱気にあたってしまい、脳貧血を起こしてホテルの人にびっくりされたこともあった。

ライブハウスやホールに行って、楽しくて素敵でかっこいい音楽と踊り、「あの空間」の感動、熱気を味わい、終わった後の余韻と、明日がちょっとだけきらきらする予感と快感と幸福、夜中の麺類が無性に美味しくなることを知った。


私は11年前に父を亡くしている。ちょうど日本のあの日から半年ほどさかのぼった頃だ。

父は本当に尊敬できる人で、亡くなったいまでも、私にとって全幅の信頼がおける人物ランキング不動のナンバーワンである。殿堂入り。

小さい頃から私をひとりの人間として扱ってくれていた。

自分で考える力をつける・感性を育てるという方針のもと、何がしたいか、そのためにはどうしたらいいか考えるのが大事だと常に言っていた。

私が市外の高校美術科、県外の美大に行きたいと言ったときも反対せず自然に見守ってくれていた。合格したときは泣いてくれた。

私と父は親子であると同時に仲間のようであり、なんらかの戦友のようであり、 …とにかく大切で、信頼のおける関係だった。

私はこの人がお父さんで良かったと思っているし、そんな父が私のことを自慢の娘だと言うたびとても誇らしかった。

11年も経っていればさすがに悲しみは薄れ、関係性を尊ぶ気持ちと楽しい思い出ばかりがピックアップされる。

とはいえ、時折無性に父と話がしたくなるときは、ある。

地に足をつけ成長しはじめた私と父はどのような話をするのだろう。父は何を話してくれるだろう。今でも少し想像したりする。

だが、父はもういない。

当たり前のことだが、もういないのだ。

そして気づく。

会いたいときに会いたい人に会いに行けるって相当幸せなことなのだ。

なんでいまこれを話しているかと言うと、遠方の知人と会う段取りをしていて、日程が変わりそうだから仕事を休むかまた日を改めるかどうしようか、というなんとも軽い悩みから思い出しただけである。

今日のテレビで、風船を飛ばして、たくさんの人が黙祷する様子を見た。

もう会えない現実ってのは世の中にすごくたくさんあって、私もそうで、テレビに映ってた人たちもそうで。


なんだかうまく言葉が出てこなくなってきたのだけれど、会いたい人がいたら会いたい。大好きな人たちならば尚更だ。

だから会いに行く画家になろう、と目標を立ててみた。
いまは兼業だから、時間をつくれるようになるまで…と考えると1〜2年後が妥当。

ミュージシャンでも身近な知人でも、大好きな人たちに、会いたいときに会いに行ける。あるいは会いに来てくれる。

それは私にとって紛れの無い、希望なのだ。

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