『字のない葉書』と絵のはなし【日記】
こんにちは、清世です。
さっき唐突に「国語の教科書で読んで記憶に残っているのにタイトルが思い出せない話」を思い出せたので(というか調べた)、備忘録として書く。
その話とは向田邦子『字のない葉書』だ。
わたしはずっと手紙の話だと覚えていたのだが、さっきちゃんと読んだところどうやら話の根幹は父との記憶の話で、なるほど人の記憶はこうして改竄されてゆくのだな、などと本当にどうでもいいあるあるを発見したりした。
本来の話は父親だが、わたしの記憶で最も印象に残っているところについて話をしていく。
『字のない葉書』というタイトル通り、この話の見せ場は字の無い葉書、つまり妹から家族へのお手紙である。「元気な日はマルを書きなさい」という父からのお達しに、妹は初日には赤で大きなマルを書いていたがやがて小さなマルやバツがふえていく。
このシーンを改めて読んで、絵ってすげーなと思った。
マルの大きさだけでぜんぶ伝わるのだ。
伝わってくるストレートさに出会うと、とても心地が良い。洞窟画の「なんかでっけーもん捕れた!これすごくね?めっちゃ言いふらしたくてたまらん」みたいなのも好き。
『字のない葉書』の妹もそうだ。
単純に心地が良いと言っていいエピソードではないが、字が書けないちいさな妹の、せいいっぱいの気持ちがまるごと表現されたマルやバツに心を打たれる。
おそらくnoteに生息している人の大半が言葉を綴れる大人であり、自分の気持ちや考えを100%伝えるために願い祈り積年の恨み等々を募らせウンウン唸り表現している。わたしも人に見せる用途をはらむ備忘録として、いまこうしてなけなしの文章力を発散させている。
だが、向田邦子の妹ほどストレートに伝わる、伝わったと自覚できる機会はとても少ない。
わたしは絵を続けていて、あれこれ絵作りとか解説を(現場では最早プレゼンでもある)後から考えたりするけども、ほんとうに相手にも自分にも「伝わった」が得られるものを描いている時間は、言葉であらわす暇は無い。ただただ届いてと懇願している気がする。
つまり、この備忘録の終着点はふたつだ。
ひとつは、絵だってそんなにガチガチ気負わず描かなくても、線やマルでもちゃんと気持ちがあれば伝えたいひとに伝わるってこと。
もうひとつは、結局「よいもの」とは、どれだけ思ったり感じたことを、自分のこころを違わず無駄に捻らず表現できるかどうかじゃないかなってこと。
だからこそ、我々大人は祈るのだろう。
今日も明日も、だれかのために。
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