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【いざ鎌倉(12)】梶原景時の最期 「13人」最初の脱落

源頼朝という絶対的カリスマによって団結していた鎌倉幕府は、頼朝の死により、御家人同士の派閥対立、そして頼朝を支えた宿老と頼家とその側近たち第二世代との世代間対立という2つの内部対立を抱えることになります。
この構図の中で、ポスト頼朝の政治を誰が主導するのか、抗争の時代がはじまります。

前回記事は下記の通り。
十三人の合議制の解説でした。

頼家の略奪愛 安達景盛討伐計画

政子という色んな意味で強い妻を持った父・頼朝と異なり、頼家は側室を複数抱えていました。
正治元(1199)年7月、頼家は新たに御家人・安達景盛の妾に惚れ込み、自身の側室にしようと考えます。

景盛の父・盛長は頼朝の流人時代からの側近で、13人の宿老の一人。母は比企氏の女性ということで、景盛は頼家政権の主流派、かつ第二世代として将来頼家政権の重鎮となることが約束されている御家人です。
頼家は、景盛が鎌倉を離れる時期を狙い、惚れ込んだ景盛の妾を側近・小笠原長経の屋敷に連れ込み、寝取ってしまいます。

鎌倉に戻った景盛は頼家の行いを聞いて激怒し、強く批判します。
どう考えても景盛の怒りは正当ですが、頼家は景盛に謀反の疑いありとし、討伐の準備を進めさせます。
13人の宿老の一人で文官トップ、大江広元は「鳥羽天皇も同じようなことをなさった」と語り、争いを仲裁しませんでした。

8月19日、頼家による景盛討伐がはじまろうとする一触即発のまさにその時、間に入ったのが頼家の母・政子でした。
政子は「安達に何の罪があるのか。安達を討つならまず私を討て」と語り、頼家は景盛討伐を断念せざるを得ませんでした。

頼家の挫折が意味するもの

自身の略奪愛を事の発端とする安達景盛との諍いは、頼家が己の判断の誤りを認めるという、頼家にとっては屈辱的な結果となりました。
自身が父と同様のカリスマ的政治指導者であると信じる頼家は、「こんなはずじゃなかった」と感じたことでしょう。
鎌倉殿である自分より、母・政子の政治力とカリスマ性が上回っていることが明らかとなり、頼家のプライドはへし折られ、早くもその権威は失墜します。
そして、本来、比企氏と縁戚にあり、政権主流派だったはずの安達氏は、この事件をきっかけに、景盛を守った政子と北条氏に接近していくこととなり、政権中枢と距離を置くことになります。
以後、安達氏は鎌倉幕府が滅亡するその時まで、北条氏に近い有力御家人となり、後の北条氏による幕政運営において重要な役割を担っていくことになります。

この事件は、頼家政権非主流派の北条氏が、主流派を切り崩す第一歩となりました。
政子はそのために息子である頼家のミスに付け込んだということですね。
やはり個性の強い女性だと思います。
この政局を主導したのが北条時政ではなく、政子だというのもポイントです。

結城朝光の失言、梶原景時の讒言

安達景盛討伐を巡る騒動から数か月後、秋となった将軍御所のとある集まりで、御家人・結城朝光が源頼朝との思い出を語る中で、「忠臣は二君に仕えず。頼朝様が亡くなられたときに出家すべきだった」と漏らします。

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結城朝光(菊池容斎『前賢故実』)

朝光の「朝」は頼朝から一字貰った名前で、朝光は頼朝を父のように慕っており、頼朝の治世を懐かしんだのでした。
しかし、御家人の統制を司る侍所の別当(長官)である梶原景時は、この発言を頼家に対する不忠であると問題視し、頼家に報告します。

10月27日、政子の妹で千幡(実朝)の乳母である阿波局は将軍御所の女官として働いており、「あなたの発言を梶原が密告し、問題になっている」と結城朝光に知らせます。
源範頼が「失言」をきっかけに失脚した過去がありますし、朝光はかなり焦ったことでしょう。

過去記事参照。

梶原景時弾劾状

突如、危機に陥った結城朝光が相談したのは同僚の三浦義村でした。
梶原景時は、源平合戦における「讒言」で源義経に批判的な報告を頼朝に上げたことで有名ですが、平時になっても御家人たちの行動や働きぶりを評価する役割を担っており、同僚たちから恨まれやすいポジションの武士でした。
また、景時は頼朝挙兵当初は平家方に加わっており、実際に敵味方に分かれて戦場で戦った御家人もいます。
中でも三浦氏は当時の総領・三浦義明を討たれており、関東の平家方を指揮した大庭氏の分家である梶原氏には格別の恨みがあったと考えられます。

三浦義村は、朝光から相談を受けると梶原景時に恨みを晴らす好機ととらえ、同じ三浦一族の和田義盛らと語らい合い、たった1日で御家人66名が署名する景時の弾劾状をまとめあげます。

弾劾状は三浦義村、和田義盛によって政所別当の大江広元に提出されます。
しかし、頼家と安達景盛がトラブったときも仲介を避けた広元は、今回も弾劾状を頼家に取り次がず、放置します。
11月10日、業を煮やした和田義盛が広元に詰め寄って強く頼家への奏上を迫ったことで、広元は圧力に屈し、翌11日弾劾状は頼家に奏上されます。
13日、頼家は景時を呼び出し、弁明を求めますが、景時は一言も弁明せず、一族を連れて鎌倉から駿河国一宮へと退去します。
12月9日、景時は鎌倉へと戻りますが、復権は叶わず、18日に鎌倉退去を命じられます。

梶原景時の最期

正治2(1200)年1月20日、梶原景時は嫡子・景季ら一族を引き連れて京に向かいますが、駿河国狐ヶ崎で追手の御家人に追いつかれ合戦となり、討たれました。
甲斐源氏の武田有義を将軍に担いで挙兵する計画だったともいわれます。
幕府に対して反乱を起こす意思があったかどうかはわかりませんが、景時は播磨・美作守護でしたので、西国に降って何らかの形で挽回するつもりだったのかもしれません。

なお、66人の弾劾状には比企能員も署名しており、追手の先陣は能員の娘婿・糟屋有季でした
頼家も能員も景時を擁護することなく、梶原氏という有力な頼家支持勢力を見殺しにする結果に終わりました。

こうして頼朝の死からわずか1年で、安達氏と梶原氏が頼家政権の主流派から脱落し、政権基盤が弱体化することとなります。

次回予告

13人の宿老、最初に命を落としたのは梶原景時。
あまりに嫌われすぎてて頼家にも擁護不能だったという感じでしょうか。
「安達氏と梶原氏の政権主流派からの脱落」が主題なので1回で書ききった方がわかりやすいと思ったので長くなりました。
過去最長の記事かもしれません。

失脚、死亡したら人物伝ですね。
次回は「人物伝・梶原景時」です。

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